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連載:第7回 アトツギが切り拓く、中小企業の未来

「できない」ではなく「やらない」で、弱みすら強みに変える。業績不振を立て直し、進み続ける副社長の奮闘記

BizHint 編集部 2022年8月2日(火)掲載
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大阪と広島に拠点を構えるパレ・フタバ株式会社。40年以上の歴史がある同社で、10年前に意を決して始めた新規事業。しかし、なかなか軌道にはのれず…。そんな中家業に戻ってきたのが、現在取締役副社長を務める藤井篤彦さんです。「先にこのことを知っていたら戻ってこなかったかもしれない」と語りつつも、事業を立て直し、その後も奔走を続けています。そんな藤井さんによると「あるもの」を変えたことが大きな転機となったそう。詳しく伺いました。

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パレ・フタバ株式会社
取締役副社長 藤井篤彦さん

1986年兵庫県出身。大学を卒業後、大手日用品メーカー、ユニ・チャーム(株)に入社し、営業やマーケティングを担当。2016年に家業のパレ・フタバに入社し、国内繊維事業を立て直し、2年半で黒字転換させた。2020年に直販事業にも乗り出し、コロナ禍に社員発案によるマスクの自社ブランドを立ち上げ、増産のため社外にも生産体制を設けるほど好調な売れ行きとなっている。


家業に戻ると決意するも…好調とはいえない経営状況

藤井篤彦さん(以下、藤井): 当社はもともと、曾祖父がセーター屋として「双葉商事株式会社」を創業したのが始まりです。2代目の祖父が代表になった際、事業を拡大し、海外繊維事業も手掛けるようになりました。その後、多角化経営を進めていくにあたり、レジャー施設の運営会社として、1981年に「パレ・フタバ株式会社」が設立されました。

パレ・フタバのかたちでアパレル事業をはじめたのは2011年です。双葉商事では海外生産による繊維事業が主となっていましたが、国産の繊維事業をもう一度やりたいと、祖父が意を決してパレ・フタバの中に事業部を作ったんです。

――繊維とボウリングという意外な組み合わせで事業を展開されていますが、そういう経緯があったのですね。藤井さんが事業承継をすることとなった経緯について、教えていただけますか?

藤井: 会長である祖父から「帰ってこないか」と言われたのがきっかけです。僕は母方の家業を継ぐということを考えたことがなかったので、「寝耳に水」という感じで非常に驚きました。

どうするべきか…と迷っていたとき、自分の周りには「元気な経営者」がたくさんいることにも気付きました。特に、80歳で今も現役である祖父の姿を見ていて、「限界(定年)を決めずにずっと働ける経営者は、仕事好きな自分にとっては向いているのかもしれない」と思ったんです。祖父には小さい頃からさんざんお世話になってきたのもあり、家業に戻ることを決意しました。それが、2016年のことです。

ところが、実際に戻ってきたときには衝撃でしたね。まさか繊維事業がこんな事態になっているとは…というのが正直な感想でした。

――社内の状況について知ることなく入社されたのですね。どのような状況だったのでしょうか?

藤井: そうなんです。売上や経営の状況といった詳しいことを把握せずに、家業に戻ってきたんです。繊維事業は立ち上がって5年ほど経っていましたが、まさに「火の車」のような状態で…。レジャー事業が黒字だったので、なんとか続けられていた…そんな現状だったんです。

正直、先にこのことを知っていたら戻ってこなかったかもしれないです。でも、 家業に戻ってきてしまった以上、なんとかするしかない。 「自分が繊維事業を立て直す」と、覚悟が決まった瞬間でした。

――なかなか業績が厳しい状況だったということですが、社内の様子はいかがでしたか?

藤井: 会長である祖父が誰よりも「国産の繊維事業が成功する」ことを信じていたんです。「絶対よくなる。君らはよくやっている」と、よく皆に声をかけていました。まぁときどき雷が落ちるときはあったんですけど…(笑)。

そのパワーに支えられていたからこそ、社内の雰囲気は最悪…という事態は避けられていましたし、社員の皆も僕自身も心折れずに歩みを進めることができたのだと思います。

あと、僕はいきなり「副社長」のポジションとして家業に戻ったのですが、社内から反発や抗議を受けたり、辞めてしまう人がたくさんいたり…みたいなことが全然なかったんです。

――後継者の方が入社して社内改革を進めると、社内から反発の声があがる…といった話はよく聞きますが、それがなかったんですね。

藤井: はい。例えば、今やっていることが正しく、右肩上がりで成長しているような状況であれば改革の際に反発がでると思います。ただ、当社の場合は、最悪の状態こそ避けられていましたが、 全員に「この状況を変えないといけない」という危機感があったから、受け入れてもらえましたし、ついてきてくれた のだと思います。

業績不振の要因は、組織でも商品でもなく「どこに売りに行くか」にあった

――繊維事業が業績不振に陥ってしまっていた要因として、藤井さんはどのように考えられていたのですか?

藤井: 業績不振の要因は、 組織でも商品でもなく「どこに売りに行くか」だった と思っています。

繊維事業を立ち上げた当初は、大型小売店や量販店への販売が主でした。ただ、当社がある地域は同業が多く、量販店や地域の店と関係性ができている企業がほとんどでした。市場には、すでに強いプレイヤーがたくさんいたんです。さらに市場自体はシュリンク傾向にありました。そんな中、後発で自社の強みもまだ見つけられていなかった当社は、価格競争に走るしかなく…。

家業に戻ってきた際は、レディース用パンツ1着数千円の金額で粗利がほとんど取れないという状況になっていて…。

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