連載:第4回 躍進する企業の転換点
借金4億円の事業承継も売上は8倍に。社長の仕事は「誰をバスに乗せるか」
今やノスタルジーとなってしまった町の写真館。そこに新たな付加価値を加えることで、売り上げを8倍にまで伸ばした2代目社長がいます。茨城県ひたちなか市に本社を構える株式会社小野写真館です。記念写真を「感動創出」という概念にアップデートし、「既存事業+新規事業」という手法で、ブライダルや旅館事業など複数の業態をスピーディに拡大しています。典型的な地方土着の中小企業が飛躍できた背景を同社・代表取締役の小野哲人さんに聞きました。
株式会社小野写真館
代表取締役 小野 哲人 さん
1997年に青山学院大学卒業後、外資系金融に勤務。その後、カリフォルニアのBrooks Institute of Photographyに1年半在籍し、写真の基礎と技術を学ぶ。2005年に帰国し、家業である「小野写真館」に入社。2006年、ブライダル事業「アンシャンテ」を立ち上げ、業態の多角化展開をスタートさせる。2010年、代表取締役社長に就任。座右の銘は「Stay hungry, Stay foolish」。
借金の要因はバブル期の不動産と地元での交際費
――2006年に家業である写真館を実父から引き継いだ時の状況を教えてください。
小野哲人さん(以下、小野): 事業承継を決めた時にはじめて知ったのですが、…債務超過の状態でした。父親は昔から「金がない」とよく言っていたのですが、具体的な数字までは知りませんでした。承継を決めた後、PL(損益計算書)やBS(貸借対照表)でその実態を知り、さすがに唸りましたね。 町の写真館で、借金が4億もあった のですから。
――借金の原因は?
小野: 最大の原因は、バブル期に今ではありえない高額で土地や建物を買っていたことです。ひたちなか市で一番の人気写真館だったのに、経営はどんぶり勘定でした。父は良くも悪くも昔のタイプの経営者。地元の青年会議所の活動に命をかけていて、若い連中を集めて飲み歩いては気前よく奢ってしまう。そういったことも借金の元でした。
――長男として、もともと継ぐ気はあったのですか。
小野: 家業を継ぐ気はまったくありませんでしたし、両親からも直接には言われませんでした。「敷かれたレールには乗らない」という私の性格を知っているから、半ば諦めていたのだと思います。
幼少期からずっと「写真屋なんか絶対やらない」という感じでした。フィルムをカメラに入れたこともなく、写真とは一切無縁でしたね。
町の写真館だった頃の小野写真館
母の涙で事業承継を意識。父の旧知だった取引先を変える
――ではなぜ、事業承継を?
小野: 大学を卒業した1997年ごろはベンチャーの走りの時代でした。私も起業して「社長になりたい」という漠然とした思いを抱いていましたが、まずはお金のことを知ろうと思い、就職先には金融業界を選びました。しかし入社初年度に当時日本最大(会社更生法の申請)の倒産をし、その会社を外資が買収したことで、結果的に外資系金融で働くことになりました。
仕事が楽しくて家業のことなどまったく考えなかったのですが、ある日実家に帰った時のことです。母親がポロッと家業の経営が苦しいことをこぼしたのです。小野写真館は地元では有名だったし、私はある程度順調だろうと思っていたので、虚をつかれたような気持ちでした。
「借金もあるので会社を従業員には引き継げない」「遅かれ早かれ会社をたたまないといけなくなる」と。母は私の前で涙を流した のです。
――その時、継ぐことを伝えたのですか?
小野: いいえ。そのときは何も言いませんでした。でもこのことをきっかけに、自分の人生の中で初めて「家業を継ぐ」ということを意識し始めました。
――先代のお父様からは何か言われましたか?
小野: 父からは、本当に何も言われませんでした。男気のようなものがあるのが父の尊敬できるところだと思っていますが、会社の経営についても60歳できっぱり離れ、その後の一切を私に任せてくれました。
承継したばかりのころ、付き合いがあった業者はほぼすべて父の友人・知人で占められていました。私は相見積もりを取るなど、公平にお付き合いする形にした結果、多くの取引が終わっていく形になりました。
おそらく 父は知人らから息子の悪口や恨み節を相当聞かされたと思いますが、私には愚痴ひとつこぼしませんでした。
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