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連載:第86回 成長企業 社長が考えていること

街の鶏肉店から年商272億円への道筋。業界最大手に押し上げた緻密な戦略

BizHint 編集部 2024年4月26日(金)掲載
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商店街で家族経営を営む小さな鶏肉店が、年商272億円を誇る企業グループへと躍進を遂げました。けん引したのは、父の後を継いだ2代目の髙波幸夫社長です。社長就任直後、独自の「目標売上高算出式」を生み出し、徹底的な数字管理により年商1.5億円の家業を272億円のグループにまで成長させました。目標売上高算出式に基づいた目標と実績の誤差は1~4%という、その経営論についてお話を伺いました。

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株式会社プレコフーズ
代表取締役社長 髙波 幸夫さん

1958年生まれ、東京都出身。米国のブルックスカレッジを卒業後、1983年に両親が経営する有限会社 鳥利商店に入社。1994年、社長就任を機に株式会社プレコフーズに改める。鶏肉専門店から総合食品卸に転換し、首都圏の主に個人経営の飲食店約3万店に7000種類以上の食品を納める。


大学を中退して渡米、家業を継ぐ気持ちは皆無だった

――まず家業を継ぐことになった経緯を教えていただけますか。

髙波 幸夫さん(以下、髙波): 当社は、父が1955年に創業した鶏肉専門店「鳥利商店」が前身で、家族経営の小さな店でした。

私は日本の大学を3か月で中退したあと渡米、カリフォルニアでファッションマーチャンダイジングを勉強するために大学に入り、卒業後は憧れのニューヨークで働いていましたが、「家業がダメになった」という父のSOSがあり帰国、家業に入ることになりました。

当時、社員は私を含めて家族5名、年商は8000万円くらいの家族経営の精肉店です。

入社後、仕事はそれなりに頑張ってはいましたが、今一つ気持ちが入らない日々。当時は今より留学経験が珍しい時代だったにも関わらず、子供のころからずっと見てきた仕事をしている自分にどこか忸怩たる思いでした。

家業の経営状況は、スーパーマーケットの台頭によりどんどん厳しくなっていくのは明らかでした。そんな中、入社から11年後のある日、突然父から「この会社をお前にやる」と言われ事業承継。アメリカへの未練はあったものの、会社経営には興味があり嬉しかったのを覚えています。そして、社長就任を機に飲食店向けの食品卸に力を入れることにしたのです。

――社長就任から劇的な成長が始まるのですね。

髙波: 最初に、当時1億5000万円くらいだった年商を10億円に成長させようと目標を掲げました。10億という数字に特別な意味はなく、当時、尊敬していた上得意の居酒屋さんの年商が10億円だったので、まずは10億を目指そうと。

目標を立ててからは、営業スタッフと配送スタッフを採用して10~20名くらいの組織を立ち上げました。特に営業部は私が先頭に立ってどんどん飛び込み営業をかけていきました。

その結果、「ささみ一本からでも届ける」きめ細かなサービスが評価され、毎年20〜30%ずつ成長を遂げました。目標の年商10億円も社長就任から7年で達成できたのです。

ただ、10億円を突破した段階でさまざまな問題も見えてきました。店の近くに建築した肉の加工施設のキャパシティも限界でしたし、朝は狭い道に配送車が沢山ならんでいて近所から苦情も来ていました。

会社を成長させるためには、経営を次の段階へ進めていく必要がありました。

私が描いていた「安全・品質・鮮度」を追求した新加工・物流センターの設立には数億円もの投資が必要でした。ただ、銀行から融資を受けるとしても私たちに担保と呼べるものはほとんどありませんから、会社の成長を理解していただくための根拠が必要でした。

そこで考えたのが、現在も会社の成長戦略の根幹を成す「目標売上高算出式」です。

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