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連載:第10回 アトツギが切り拓く、中小企業の未来

「エイリアンが来た」と社員に笑われても。「負け組戦略」での会社再生

BizHint 編集部 2022年9月6日(火)掲載
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1956年に西陣織の帯を製造する会社としてスタートした三ツ冨士繊維工業。創業60年を超えた今、ミツフジに社名を変え、培ってきた繊維業のノウハウと最先端の生体情報マネジメント技術を融合させたウェアラブルIoT事業で社会課題の解決に取り組んでいます。3代目社長として祖父・父が守ってきた会社を受け継いだ三寺歩さん。元々は国内・外資系メーカーに勤務し、「会社を継ぐつもりは全くなかった」と言います。会社存続の危機のタイミングで家業を継ぎ、経営者の道を歩んできました。社内の反発がある中、どのような過程を経て伝統的企業から最先端技術のIoTメーカーに変貌を遂げたのか。「新しいミツフジ」を率いる三寺さんに、事業承継と事業成長の成功理由について詳しく伺いました。

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ミツフジ株式会社
代表取締役社長 三寺 歩 さん

1977年生まれ。立命館大学経営学部卒。松下電器産業(現パナソニック)入社後、シスコシステムズ、SAPジャパンなどを経て、2014年に三ツ冨士繊維工業(現ミツフジ)入社、代表取締役就任。「銀めっき繊維」を中心とした事業展開に舵を切る。事業承継した会社の再建に取り組む中、ウェアラブルIoT事業「hamon」を立ち上げる。伝統的な繊維業のノウハウと生体情報マネジメント技術を融合し、スポーツ・医療・介護・福祉現場を支えるサービスに成長させる。


家業を継ぐつもりは全くなかった。意思を変えたのは父の「会社が潰れる」の知らせ

――三寺さんはミツフジを継ぐ考えや、家業に関わろうという想いはあったのでしょうか。

三寺 歩さん(以下、三寺): 全くありませんでしたね。私は大学を卒業してからパナソニックやシスコシステムズなどに勤めていましたが、継ぐどころか家業から離れようとすら思っていたくらいです。

そもそも私と父親(先代社長)は仲が悪いんです。喧嘩をするわけではありませんが、世界シェアが高いグローバル企業に勤めていた私にとって、中小企業の経営者である父親の仕事の仕方や考え方が理解できなかったのです。

普通にやったら売り上げが上がるはず、という私の「常識」が父には通用しなかったのです。社会人として違う道を生きてきたので、好きや嫌いではなく理解し合えない、分かり合えないと思いましたね。

ただ、職人だった祖父には生前から仕事の話を聞かされていたので、育ててもらった恩義は何かの形で返したいと思っていました。父に対しても、仕事観は理解できませんでしたが、揺るぎない目標に向かって努力していたのは間違いなかったので、本人が取り組んでいる夢を叶えてもらいたいな、とは思っていました。

――先代社長にはご兄弟も多くいたようですね。その方々ではなく三寺さんが事業承継するに至った背景はありますか。

三寺: 親族は会社にはいましたが、会社を背負えるかというと難しかったと思います。誰しもがそうだと思いますが、覚悟が持てなかったのだと思いますね。

私は社会人の期間をずっと東京で過ごしていましたが、ある日、父から相談がありました。相談というのが、「会社を継いでくれ」ではなく「会社が潰れる」という相談でした。

自分にはわからない世界でしたが、祖父や父が生涯をかけて取り組んできた仕事、会社の歴史が終わる。潰れてしまうという言葉に衝撃を受けました。「継いでくれ」と言われていたら継ぐことはなかったかもしれません。家業がなくなるということに対して、自分はどう向き合うべきなのかを初めて真剣に考えました。

ミツフジは2008年に工場を売却しています。祖父が亡くなったタイミングで、祖父が住んでいた家以外の資産は全て売却したんです。製造業にとって工場を手放すことは生命線を失うことですから、この時にはじめて父の経営方針に違和感を覚えました。育ててもらった祖父・父の会社がなくなってしまうかもしれないと。大企業では当たり前にやっていることを父は知らないんだろうと思いました。

「潰れる」という重たい言葉を突きつけられて出した結論は、ミツフジにちゃんとした経営のやり方、少なくともその基本的なことを伝えるべきだし、私が手伝うべきだというものでした。しっかりと承継できるか、継ぎ切れるのか、ということよりも、潰してはいけないと思ったんです。

東京で過ごしていると、地方の人と悩みの質が違うなと感じるんです。

事業承継とか後継ぎというと、割と美談になりがちですが、地方の人にとっては継がされる・やらされる、「させられ仕事」なんです。友人と話していると、素晴らしい技術や製品を持った会社なのに、なぜか他と比較をして自虐的になっていることがあります。「こんな部品を加工してるんや、恥ずかしい仕事やろ」という感じで。

家業にプライドを持てばいいと思うのですが、ミツフジも含め誰かと比較してしまう社会になっていると感じたんです。

だから東京での経験を生かすチャンスがあると思い、手伝うことにしたのが始まりでした。

自分の足で動き背中を見せたから会社が変わった。しかし事業承継は簡単ではなかった

――入社した当初はまずどのようなことを手がけられたのでしょうか。

三寺: 最初はもう「エイリアンがきた」という感じでした。自分なりに足りないことや、すべきことをまとめ、説明するんですが馬鹿にされるんですよ。「できるわけないやろ」「どうせダメだ」そんな内向きの思考をぶつけられて笑われました。

自分たちの仕事や商品に対して、自分たちははすごい仕事をしているというプライドはあるんです。でも、社会やお客様がそれをわかってくれないから売れない、やっても無駄、という思考なんです。

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