連載:第27回 成長企業 社長が考えていること
『老後を安心して過ごしたい』『月収100万が欲しい』あなたは社員の夢を、本気で叶えようとしていますか?
相模原で水周りのお困りごとを担う株式会社小池設備。家業を継ぐように父親マインドコントロール(?)を受けて育ち、「いずれは」と思っていた29歳の時にその父が急逝、若き社長として事業継承することに。小池社長の転換期は大きく2回。親のために継いだ会社を「辞めていい」と母に言われたこと。そしてどんどんと社員が辞めていく中、人が辞めない企業になるための方法を考え続けた結果、「夢を叶える企業」というスローガンを打ち出したこと。さらに「後継者不足の水道会社のM&A」と「6年間で社長になれる独立支援制度」という画期的なアイディアで、業界の多くが抱える「後継者問題」と「採用問題」を一気に解決する試みをスタートさせている小池社長に、ここまでに至る経緯をお聞きしました。
株式会社小池設備
代表取締役社長 小池 重憲さん
1972年生まれ。小さい頃から家業の手伝いをさせられ「おまえにできることは水道屋ぐらいだ」と言われながら育つ。大学卒業後、直接家業に就職しなかったが、20代で後継者として家に戻った矢先に先代の父が急逝。悩みながら社長業をやっていく中で、たくさんの人生の師匠から教わったことを実践し、自分自身と会社を大きく成長させている。
29歳の時に先代の父が急逝 経営のことを何も知らないまま社長に
――貴社はご実家のお父さんが、創業した会社ですよね。
小池重憲さん(以下、小池): はい。両親が戦後の建設ラッシュの時代に、何をしようか考えた時に、ガスや電気の仕事は間違えるとお客様の人命被害を出しそうだけど、水道なら命までは取らないだろう、という考えで始めたそうです。現在は、個人や集合住宅の木造住宅への水回りを請け負う事業と、ゼネコンなどの耐火構造物の新築改築、公共の建物や道路の水道土木工事など、多岐にわたって携わっています。
私は長男だったこともあり、小さい頃から自分が家業を継ぐものだと、父親にマインドコントロールを受けていました(笑)。何か失敗するたびに「おまえにできることは水道屋ぐらいだ」と言われ続け、休みの日には現場に連れて行かれては、手伝うとほめられてご褒美をもらえたりと。楽しい記憶として植え付けられたので「いずれは自分が」と当たり前のように思っていました。
大学卒業後は一度くらい外の会社を見た方がいいだろうと思い、他の水道設備の会社に就職しましたが、3年目に親から呼び出されて、改めて「家を継ぐ気があるか?」と確認されました。というのも、銀行の貸し剥がしがあって事業後継者が必要になったからです。そこで、家に戻ることになりました。
次期後継者とはいえまだまだ先のこと。経営に関しても学ぶというより、父親の真似をすればできるだろうという感覚でいましたし、父親からは、息子だからと厳しくダメ出しばかりされては、若くてヤンチャな自分はそれを素直に聞かない。そんな状態だったんです。
ところが、私が29歳のときです。ゴールデンウィークに友人とキャンプに行ったのですが、朝からなぜか胸騒ぎがしていて……。車に携帯電話を置いてきてしまい、取りに戻るとビックリするほどの着信がありました。慌てて母に電話をすると、父が倒れて病院に運ばれ、そのまま亡くなったというのです。翌日からさまざまな手配に追われたものの、ゴールデンウィーク中に葬儀まですべてが終わりました。何も知らない人からは連休が明け、普通に会社がスタートしているように見えているでしょうが、その中身はまるで変わってしまっていたのです。
2回の不渡りで倒産の危機も。困った時は声を上げて周りを頼る
――29歳で何もわからないままに社長になったということですか?
小池: はい。ゴールデンウイーク明けに会社の経理を担当していた母に連れられて、銀行での代表者変更届を出したのが最初の仕事でした。いきなりすごい重圧を感じて、印鑑を押す手が震えたことをよく覚えています。
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