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連載:第52回 経営危機からの復活

峠の釜めしを取り巻く“聖域”を壊した6代目。経営危機を迎えた荻野屋がV字復活できた理由

BizHint 編集部 2023年12月20日(水)掲載
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「峠の釜めし」は1958年の商品誕生以来約1億7000万個を売り上げたロングセラー商品。老舗の6代目として入社した高見澤 志和さんは社内の実情を見て組織を縛っていた「聖域」を打破することを決意します。6代目として何を壊し、何を残したのか、「脱・釜めしも辞さない」と語る6代目が行った老舗企業の変革の過程を伺いました。

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株式会社 荻野屋
代表取締役社長 高見澤 志和(たかみざわゆきかず)さん

1976年、群馬県出身。2000年慶応義塾大学法学部法律学科卒業、2018年慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修了。2003年、父の急逝にともない荻野屋へ入社。専務取締役を経て、2012年に6代目の代表取締役社長に就任する。財務・人事の改革を推進したほか、新商品の開発や東京市場を見据えた新店舗出店などを積極的に行う。


後継するつもりはなかった家業を運命として受け入れた

--「峠の釜めし」といえば駅弁の代名詞的な存在で、売上も順調に伸びていたようですね。

高見澤志和さん(以下、高見澤): 4代目の祖母みねじが「峠の釜めし」を開発したのが1958年。他にはない陶器の容器と温かさが「画期的な駅弁」として注目され、会社が大きく躍進しました。娘婿として5代目に就任した父の時代になり、旅の手段が鉄道から車へシフトすると、駅ホームでの販売からドライブインへと販売チャネルの軸足を移すなど数々の変革、他エリアへの展開を積極的に行い業績を伸ばしました。長野五輪開催(1998年)に合わせた長野県への大規模店舗の出店も追い風になって売上は急拡大、見た目には順調に映っていたと思います。

そんな父が旅先で急死したことが、私が入社するきっかけになりました。父とは、性格があわず口を開けばケンカばかりという状態で、何度も地元に戻るようには言われていたものの後を継ぐ意志はゼロ。しかし、ずっと反発していた父を失ったときに、何不自由なく育ててもらった感謝や親孝行したいという気持ちが芽生えてきたのだと思います。葬儀が終わると自分が後を継ぐという覚悟が自然とできていました。

--入社してみたら実態は違ったのでしょうか?

高見澤: 財務諸表を見たときに、一目で愕然としました。一言でいえば、借入過多状態です。成長を続けてきたとはいえ、当時の売上規模と比較すると、明らかにおかしい。原因はドライブインや飲食店の出店を急ピッチで進めてきた父の代からの借入によるものです。 父は、猪突猛進型の経営者だったので、細かな数字管理が苦手なのは知っていましたが、あまりにもバランスを欠いていました。

当時の私は経営の実績もなく、ほかの会社で働いた経験もありませんでしたが、公認会計士を目指していた時期もあったので、会計の基本的な知識は身につけていました。この財務状況のままでは「今はよくても売上が落ちるようなことがあるとたちまち立ち行かなくなる」ことを伝えましたが、大半の役員や幹部クラスには話が通じなかったのです。

「お客様も来店してくれている、売上も十分にある。なぜ会社がダメになるのか理解できない」と。経営者は貸借対照表(BS)も正しく把握しなければならないのに、損益計算書(PL)のみに捉われている状態。私が入るまでそれを指摘する人はいなかった。

やはり組織本来の力を越えたレベルの急速な事業拡大は、勘違いももたらします。 仕組みが追いつかず資金繰りに行き詰まり、倒産した事例をあげればキリがないですよね。ここで改革を断行しなければ、当社も同じ道をたどっていたと思います。

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