連載:第25回 躍進する企業の転換点
ライバルが次々と脱落するなか30年間生き残れた理由。「新横浜ラーメン博物館流」最強の経営術
新横浜にある世界初・ラーメンのフードアミューズメントパーク『新横浜ラーメン博物館』。開館以来、日本中の名店を誘致してきた同館ですが、これまでに2度大きなピンチがあったといいます。そんなピンチを経ても生き残れた唯一無二のブランディングをどのように作り上げたのか。2024年に開館30周年を迎える株式会社新横浜ラーメン博物館の代表取締役 岩岡洋志氏にお話を伺いました。
株式会社新横浜ラーメン博物館
代表取締役 岩岡洋志さん
1982年3月に大学を卒業後、4月に大昭和製紙株式会社(現:日本製紙株式会社)の代理店である株式会社大倉博進(現:新生紙パルプ商事株式会社)に入社。1985年6月には退社し、父親の会社である株式会社興新ビルに入社。そして、1993年8月に株式会社新横浜ラーメン博物館を設立し、そこで代表取締役に就任、1994年3月6日に「新横浜ラーメン博物館」をオープン。
2度の大幅な来館者減。それでも生き残れた理由とは
――新横浜ラーメン博物館で起きた2度のピンチとはどのようなものだったのでしょうか?
岩岡洋志さん(以下、岩岡): 1度目のピンチは類似の施設が各地に誕生したことです。ラーメンブームが過ぎ去り、また「ご当地ラーメン」の認知度が上がって珍しくなくなったことなどの要因が重なり、来館者が分散してしまいました。2度目のピンチはコロナ禍です。こちらは来館数が約26万人とそれまでの約1/3にまで落ち込みました。
どちらも当時は非常に厳しい状況でしたが、現在では安定した集客ができています。一方で、ラーメンブーム時に全国各地で誕生したラーメン店を集めた施設で現在も残っているところはほとんどありません。
――そのような状況を経てもなお、新横浜ラーメン博物館が生き残れた理由をどのように分析されていますか?
岩岡: 大きく分けて2つあると思っています。1つは利益を出し続けられる仕組みができていたこと。もう1つは、新横浜ラーメン博物館には他の類似施設では絶対に真似できない強みがあったことです。
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