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連載:第54回 成長企業 社長が考えていること

リーダーは「順番」を間違えるな。アメーバ経営と理念刷新がV字回復の契機になった。

BizHint 編集部 2022年12月21日(水)掲載
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1926年に左官業として創業した総合建設業の常盤工業株式会社。3代目として市川浩透さんが入社した時、仕事に対して「待ちの姿勢」が蔓延している状況に危機感を覚えたといいます。次々と社内改革を進めるも、社員の心は離れるばかり。ついには7年連続赤字の危機に陥ってしまいます。苦悩する市川さんの目が覚めたきっかけは、京セラフィロソフィとの出会いでした。遠回りをしてたどり着いた、企業のあるべき姿とは?

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常盤工業株式会社
代表取締役社長 市川 浩透さん

1964年生まれ。静岡県浜松市出身。早稲田大学理工学部建築学科卒。1988年、新卒で株式会社リクルートに入社。1993年、常盤工業株式会社に入社。2006年、同社代表取締役社長に就任。


危機感が先走って空回り……社内で孤立

――常盤工業株式会社の事業内容を教えてください。

市川浩透さん(以下、市川): 常盤工業は、私の祖父が兄弟とともに立ちあげた会社で、建物の壁や床を塗る左官業から始まりました。祖父の弟たちが大工や左官職人だったことから、力を合わせれば建物を造る仕事だってできると考え、建設・土木も含めた総合建設業(ゼネコン)へと変化してきました。建設・土木業といえば行政の仕事が多いと思われがちですが、当社では民間の仕事が7~8割を占めています。建築や土木のほか、老朽化した建物のリニューアルを手がけるCS建物再生事業、そして住宅事業など、社員数100名ほどで、みなさまの暮らしに寄り添った地域密着型の仕事をしています。

――市川さんが常盤工業に入社した当時、会社はどんな状況でしたか?

市川: 私が戻ってきた1993年当時は設計士が1人もおらず、本当に施工部隊だけの会社でした。営業の社員は若干名いましたけれど、社員の多くは現場監督です。

一番驚いたのは、評価制度と呼べるものがほとんどなく、社員の給料が年齢で決まっていたことです。仕事ができる人もそうでない人も一律の給料。むしろ、仕事に時間がかかる人の方が、残業代が付いて年収が高くなるような状況でした。新卒入社から5年ほどお世話になった株式会社リクルートとのギャップはあまりに大きくて、東京と地方の違いや、ベンチャーと老舗の違いを痛感することが多々あり、衝撃を受けました。

また、会社の将来についても不安がありました。建設業は不景気の影響が遅れてくる業界なので、バブルがはじけた後もしばらく受注が途切れず、当時の売上は順調でした。ですが、そのままではいずれ業績が落ち込むという危機感が常にありました。

「待ちの姿勢」から脱却し、企画提案型の営業にシフトしなければいけない――。まずは私自身が背中を見せなければいけないと感じ、誰よりも必死で営業しました。ただ、今思えば、当時のそれは自分の力を示したいというモチベーションからの行動だったと思います。その結果、私は社内で空回りすることになりました。

会社と現場の板挟みで苦しんだ日々

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