連載:第15回 経営危機からの復活
コロンビア農園や東京進出、自然災害。コーヒー店が壁を乗り越えて学んだ生き残り術
茨城の小さな町でスタートした喫茶店。異国の地に直営農園を開設し、東京へと進出した大躍進の裏には失敗と経営者の苦悩がありました。「どうしたら軌道に乗るかがわからなくて相当悩んだ」と話す、株式会社サザコーヒー 代表取締役 鈴木太郎さん。数々の困難にどう立ち向かったのか伺いました。
株式会社サザコーヒー
代表取締役 鈴木太郎 さん
1969年茨城県生まれ。東京農業大学を卒業後、グアテマラやコロンビアでの生活を経て、1998年に入社。コロンビアで農園主となり、味覚鑑定や豆買い付け業務を担当。さらに本社の運営で経営手腕を磨き、次々と新機軸を打ち出した。副社長を経て、2020年に代表取締役に就任。https://www.saza.co.jp/
自社経営農園の夢を叶えるも手痛い失敗に見舞われた
私どもサザコーヒーはもともと苦肉の策で生まれ、さまざまな苦難や失敗を乗り越えてきた店なんです。前身は、私の祖父が1942(昭和17)年から、茨城県水戸市の隣にある勝田市(現ひたちなか市)で運営していた「勝田宝塚劇場」という映画館でした。
勝田宝塚劇場。社長は太郎氏の祖父・富治氏。茨城県勝田市(現ひたちなか市)に現在の東宝が建設し、資材は日立製作所が提供。映画が全盛期で、800人収容の劇場はいつも大賑わいだった。
しかし、次第に映画が斜陽産業になってしまい、運営が難しくなった。そこで映画館の赤字を補填するため、69年に二代目の父が喫茶店を始めたのです。
父による自家焙煎へのこだわりに加え、喫茶店ブームの追い風もあって多くのファンがついてくださり、瞬く間に茨城県内で3店舗まで拡大しました。
さらに本格的なコーヒー店を目指すべく、98年にコロンビアの農園を購入し、直営農園としました。自分たちなりの理想のコーヒーを生産するのが目的でしたが、苦難の連続。ちょうど私が入社したタイミングで、責任者として派遣されましたが、国の治安は悪くて命がけ、働く人々の意識も日本とはまったく違うので運営には苦労しました。
コロンビアの自社経営農園。理想のコーヒー豆を求め、コロンビアに5ヘクタールの農園を購入した。入社したばかりの現社長・太郎氏が責任者となり、土壌の作り直しや植え付け、品種改良を進めたが……。
さらに土地の権利を巡って裁判になったり、病気に耐性があると聞いて植えた品種が病虫害に遭ったりと、手痛い失敗もしました。土壌作りや品種改良にも苦戦して、希望した品種に入れ替えるまで7年もかかりましたね。
どうしたら軌道に乗るかがわからなくて相当悩んだのですが、まず人にエネルギーをかけないといけないと思いました。
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