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連載:第17回 アトツギが切り拓く、中小企業の未来

若手が集まる、自主的に育つための経営術。伝統工芸の社長が語る「逆の立場になって考える」ことの重要性とは。

BizHint 編集部 2023年1月5日(木)掲載
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「八女提灯」は福岡県八女市で江戸時代後半期から地元農家の手によって代々受け継がれてきた伝統工芸です。ただ、近年の生活様式の変化や、安価な大量生産品の台頭によって、需要は徐々に低下。「シラキ工芸」が創業した昭和55年は“作りさえすれば売れる”という時代も終わりかけていたといいます。そんな中、弱冠24歳で2代目社長となった入江朋臣さんは、八女提灯の伝統を大切にする一方で、若手職人の意見を積極的に採り入れた新製品「cocolan」(ココラン)を発表。cocolanは国内インテリアショップはもとより、海外でも評価されています。伝統を重視する手工芸の分野で、あえて若手職人の意見を重視する理由や、今後の販売戦略について、入江さんに伺いました。

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有限会社 シラキ工芸
代表 入江 朋臣(いりえ ともおみ)さん

昭和55年、実父が盆提灯の火袋(ひぶくろ)製造を請け負うシラキ工芸を創業。入江さんは平成6年から家業を継承し、平成10年に父親と経営を交代、平成16年、シラキ工芸を法人化。その約10年後、新ファクトリーブランドである「ちょうちん堂」を立ち上げる。令和2年に、現代の生活スタイルにマッチした新感覚の提灯「cocolan」を発表。新販路の確立を進めている。


やり方を変えないと、自分たちの生活すらままならない…

――八女提灯とはどのような工芸品ですか?

入江朋臣さん(以下、入江): 八女は、九州最古の和紙生産地であり、古くから竹林も多かった地域です。八女の伝統的な手漉き和紙は、楮(こうぞ)の繊維を使うので破れにくく、これに、豊富に採取できる竹材を組み合わせることで、江戸時代後半期あたりから提灯づくりが盛んに行われるようになったと言われています。

江戸時代から受け継がれてきた八女提灯。現代では盆提灯としての需要が多い

――現在の前身にあたる事業所はご実父が創業されたそうですが、以前から提灯づくりに関わっておられたのですか。

入江: いえ、もともとは農家だったと聞いています。八女の提灯は昔から、木地づくり、火袋の製作、絵付け、漆塗りと蒔絵の製作など分業制で行われていて、それぞれの工程は農家の下請けによって支えられていました。

私の父も農業の傍ら、白木(現・八女市立花町の一部)にあった提灯屋で働いていたそうですが、その提灯屋の経営が傾きかけたことをきっかけに「シラキ工芸」を創業しました。「シラキ」という名前はその地名から取った名前です。

その頃、私は小学校3~4年生でしたが、気がついたら家の中が提灯で一杯になっていた…という感じですね(笑)。ちょうど、国内景気がバブル期に向けて拡大しており、父の事業もまずまず順調でしたから、中学校卒業前くらいには、「いずれ自分が跡を継ぐことになるのだろう」という気持ちが湧いていました。

その後、20歳で父の事業所に仲間入りしました。私は結婚が早かったので、父と私と妻の3人でこぢんまりとやっていました。

――その4年後には、早くも経営を譲り受けておられますね。

入江: はい、「やり方を変えなければ食べていけない」という思いが強くなったのです。

先ほど言ったように、八女提灯の製作は分業制になっていて、シラキ工芸は提灯の「火袋」と呼ばれる箇所を製造しており、さらにその工程を細分化し、170人ほどの内職さんに受託していました。その分外注費がかかり、利益がかさむわけです。

そのため、事業所の売上げはそこそこあるのに、私や妻が受け取れる給料はとにかく安かった。とても夫婦で生活できないので、24歳で父と経営を交代しました。当時、父はまだ55歳くらいでしたが、仕事からはスパッと手を引いてくれて、自分なりに将来について考えることができました。

ちょうどその時から、人々のライフスタイルの変化などが進み、提灯がだんだん売れなくなってきたんです。昔から八女提灯は主に盆や法事の時に使われるものだったので、洋式の家屋やマンションのようなスペースのない家では使われなくなってきていました。

さらに、内職さんの高齢化も進み、熟練の職人が徐々に減っていました。こうした背景から、抜本的な経営革新を行う必要があったのです。

――どのような革新に着手されたのですか?

入江: まず、“下請け業者”からの脱却ですね。部材屋に甘んじていると、メーカーや問屋から値引き要請されやすく、経営が安定しません。しかも、シラキ工芸がどれだけ高品質な火袋を作ったとしても、提灯に「シラキ工芸製」と名前を入れることはできません。いわゆるブランディングも難しいのです。

これらのことから、下請けを脱却し、自社ブランドの完成品を販売するメーカーを目指さなければならないと考えました。

同時に、若い人材を雇用して育成する必要も強く感じていました。当時から、熟練職人の高齢化は課題でしたし、「伝統工芸品」と言いつつも、時代の変化に合わせて少しずつ変えていくべきだと思っていましたから、新しい需要が理解できる若手職人が育たなければ、技術継承もできません。

父から事業を受け継いでから法人化するまでの6年間は、動き回ったり勉強したりする期間でした。

火袋の製造風景。木型に長い一本の竹ひごと紙を巻き付ける。

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