連載:第5回 ヒット商品を生む組織
「1番・有料」は絶対条件。コロナ禍のヒット商品、なぜこの会社だけができたのか?
コロナ禍で大きな打撃を受けている観光バス業界。そんな状況下でも、日本初の「オンラインバスツアー」などのユニークな試みで逆境に立ち向かっているのが、香川県琴平町に本拠を構える琴平バス株式会社、通称「コトバス」。その内実は、「運輸」と「旅行」の両輪を「卓越した企画力」で駆動するユニークな会社です。その自由闊達な組織風土の作り方について、代表取締役・楠木泰二朗さんと、オンラインバスツアーの仕掛人である執行役員の山本紗希さんにお話を伺いました。
琴平バス株式会社
代表取締役 楠木 泰二朗
2000年、新日本ツーリスト株式会社に入社。2007年、同社代表取締役。2012年、国土交通省貸切バス運賃・料金制度WG委員。2013年、琴平バス株式会社代表取締役。2017年、日本ご当地タクシー協会設立、理事長就任。
祖父と父の確執で分かれた2つの会社。20年の絶縁を経て。
――琴平バスと楠木社長の来歴を教えてください。
楠木泰二朗さん(以下、楠木): 私は22歳のときに琴平バスのグループ会社だった新日本ツーリストという旅行会社に入社し、29歳で代表取締役になりました。そして父の跡を継いで琴平バスの代表取締役になったのが35歳のときです。
もともと琴平バスは私の祖父(故・楠木正晴氏)が創業した会社です。祖父は戦後、トラックでの運輸業を弟と一緒に始めました。事業は順調だったのですが、祖父は当時「365日がお祭りみたいな町」と言われていた琴平で観光業をやりたくなり、弟に運輸業を任せ、自分は琴平に移住してタクシーや貸切バスの事業を始めました。
父(楠木哲雄 現・琴平バス会長)も当初は琴平バスにいましたが、祖父との仲違いがきっかけで、旅行部門を分かつ形で新日本ツーリストを立ち上げました。父が琴平バスの旅行部門に所属していたほぼ全員を引き連れて独立した形です。そしてそれから 約20年、二人は絶縁状態でした。
その関係に変化が起きたのは、琴平バスの後継者問題がきっかけでした。 当時、会社はバブル崩壊後で大変な状況だったのですが、祖父が高齢でしかも後継者がいないとなると、金融機関も支援しづらいという状況 でした。
そこでは本当に色々なことがありましたが、結局は祖父と父が仲直りするのが一番ということになり、二人が和解。2002年に父が琴平バスを継ぎました。
ですので、私が家業の一つである新日本ツーリストに入社した2000年時点では、琴平バスと新日本ツーリストは、まったく別の会社だったんです。
――お父様の会社に入られたきっかけは?
楠木: 私は将来、自分で事業を起こしたいと考えてはいたものの、大学4年の夏ぐらいまでは新卒として一般企業に就職する予定でした。
そんなある日、父から、将来的に会社経営をするつもりがあるなら遠回りせずに、身近なところで学んだほうが良いのでは、という話をされたんです。そこで(それもそうだな)と思い、新日本ツーリストに入社しました。
そして2002年に思いがけず祖父と父が和解して、父が琴平バスの代表になりました。父は琴平バスの経営再建に集中することになり、新日本ツーリストのほうでは「琴平バスのバス事業をいかに売っていくか?」ということが大きなテーマになりました。
そんな中で私は、バスツアーの企画などをやりながら経験を積み、2007年に新日本ツーリストの代表取締役となりました。
20年分かれていた組織の統合に、17年をかけた
――約20年分かれていた会社が、その後、琴平バスに統合されていきます。現場の混乱はなかったのでしょうか?
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