連載:第22回 ヒット商品を生む組織
売上100万から3億へV字復活。売れる商品を生む組織「2つの絶対条件」
京都で160年続く老舗ながら「年商100万円」にまで落ち込んだ京和傘の「日吉屋」。公務員を退職し、婿養子として5代目を継いだのが、西堀耕太郎さんです。一族は存続を諦めていた中で、「よそ者」らしい発想とロジカルな事業運営、そして地道な努力でV字回復、海外展開を果たします。いまや他社の海外展開や商品開発・販売サポートを手がける西堀さんの軌跡を振り返ると、そこにあったのは「できそうでできない、当たり前の組織づくり」と「ロジカルな販売戦略」。京和傘で唯一存続する企業に「生き残るための変化」について聞きました。
日吉屋 五代目当主 西堀 耕太郎さん
唯一の京和傘製造元「日吉屋」五代目当主。和歌山県新宮市出身。カナダ留学後市役所で通訳をするも、結婚後妻の実家「日吉屋」で京和傘の魅力に目覚め、脱・公務員。職人の道へ。平成16年、五代目就任。和傘の技術、構造を活かした新商品を積極的に開拓。国内外のデザイナー、アーティスト、建築家達とのコラボレーション商品の開発にも取り組んでいる。
年商100万円。廃業が決定していた老舗を、公務員を辞めて継ぐ。
――西堀さんが5代目を継がれた頃の経営状態について教えてください。
西堀耕太郎さん(以下、西堀): 2004年に継いだのですが、ご存じの通り、そのずっと前から世の中で和傘はほとんど使われなくなってしまいました。当社が残ってきた理由は茶道です。御家元の近くに立地していて、お茶道具(野点傘)としての需要が細々とあり、何とか続けられていました。
当時の年商は100万円ぐらい。 日吉屋は妻の実家の家業なのですが、和傘だけでは厳しいので、それこそ年金などと合わせ生計を立て、 4代目で畳むと決まっていました。
――そんな会社をなぜ、継がれたのでしょうか?
西堀: 私自身、この和傘を見て「格好良いなあ」と感じ、妻と結婚後に暮らしていた和歌山の新宮から妻の実家に毎週末通い、傘づくりを教わっていました。
そんな中で「和傘がなくなってしまうのはもったいない。何とかできないか?」と、ボランティアでホームページを作ってPRしてみることにしました。当時、私は新宮市役所の観光課に勤めていて、地元観光協会等のホームページ制作などを担当していましたので。
そしていざホームページを公開してみると、問い合わせ等が増え、少しずつ売上が伸びていく…。これは面白そうだ、いけるかもしれない…と思いました。
そこで、日吉屋を継ぎたいと申し出ました。しかし、もともと畳むことが決まっていた会社です。 妻の実家も私の実家も、親族一同大反対…。 ただ最後は、私の「やりたい」という意思を尊重していただき、継がせていただけることになりました。
社長自身が手を動かしていたら、事業は大きくならない
――今でこそ、照明・インテリアや海外展開など事業を拡大されていますが、そこに至るまでの道のりで、欠かせなかったことはありますでしょうか?
西堀: 当社にとっては、大きく2つでしょうか。ただこれは、数多くの小規模企業にもあてはまるかもしれません。
その2つというのが、
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