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連載:第7回 老舗を 継ぐということ

経営とは「山登り」。社員と手を握り合って登れば、見える景色も変わる

Logo markBizHint 編集部 2020年3月1日(日)掲載
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昔ながらの釜焚き製法や透明石けんの製法をコア技術として、石けんやシャンプー、化粧品を製造販売する松山油脂株式会社。1908年に東京都墨田区で創業した同社は廃業の危機から脱し、次々と新たな自社ブランドを立ち上げることで、売上20倍、利益率10%を実現してきました。大手企業を辞めて家業を継ぎ、5代目社長として舵を取る松山さんにお話を伺いました。

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松山油脂株式会社
代表取締役社長 松山 剛己さん

1964年生まれ。1986年慶應義塾大学経済学部卒業。博報堂、三菱商事を経て1994年に家業の松山油脂に入社。2000年に代表取締役社長へ就任。同年に株式会社マークスアンドウェブを設立し、代表取締役社長に就任。2009年から富士北麓の有機的資源を生かした「北麓草水」、2016年から野菜を中心としたスローフードスタンド「GREENBOWL」を事業展開している。


グローバル化で危機に瀕した町工場。勝算はなくとも自社ブランドに挑んだ

――貴社の歩みと家業を継ぐことになった経緯を教えてください。

松山 剛己さん(以下、松山): 松山油脂は、雑貨商として1908年に高祖父が創業した会社です。戦後まもなく石けんの製造を開始して、大手の洗剤メーカーや化粧品メーカーの下請けをしてきました。ところが、1980年代の東西冷戦終結後、グローバル化が進み海外の製品が非常に安く入ってくるようになったのです。

日本の石けん業界も低コストの海外生産にシフトしていったため、当社は会社存続の危機に追い込まれました。私は大学卒業後、博報堂と三菱商事に勤めていました。当時、松山油脂は衰退の一途をたどっており、父が廃業したいと話すのを耳にしていたので「そろそろ家業に戻ろうか」と言うと、父は「せっかく三菱商事にいるんだからそっちでずっとやってくれ」と門前払い。しかし、私は高祖父から続く家業を潰したくない一心で父を説得し続け、1994年に家業へ入社しました。

入社当時、松山油脂の売上は4億3000万円。固形石けんのみを製造していて、売上の98%が大手企業からの下請けでした。実は、4億円という金額は、私が博報堂の若手だった頃に与えられた売上予算と同じなんです。異なるのは、そこに45人の社員がぶら下がっているということ。社員の家族が4人だとしたら、180人以上の生活がかかっていることに責任を感じずにはいられませんでした。

――家業を継がれて、何から着手されましたか?

松山: 下請けの仕事から脱し、自社ブランドを立ち上げていきました。必ずしも勝算があったわけではありません。しかし下請けは受け身の仕事であり、「何をどうやってつくるか?」「いくらで売るか?」といった大切な事柄も相手任せです。このままでは立ちゆかなくなる。下請けから脱却しなければ。そう腹をくくり、入社翌年の1995年に初めて自社ブランドを立ち上げたのです。

加えて、下請けというのはお客様の顔が見えない仕事でもあります。 「この製品は自分がつくった」と胸を張っていえる仕事がしたい 、という気持ちもありました。

立ち上げにあたっては、まず東急ハンズやロフト、ナチュラルハウスといった店舗の売り場に定期的に通い、他社製品を研究しました。すると次第に売り場のスタッフとも打ち解け、親しくお話しすることができるようになったのです。

彼らとの会話の中で、当社の強みである釜焚き製法や無添加のモノづくりを訴求する、というアイデアが生まれ、これを自社ブランドの中心に据えました。こうして作った初の自社ブランド製品が「無添加せっけん」と「塩入りボディソープ」です。ちょうどバブル景気がはじけたあとで、「華美装飾」よりも「安心安全」「質実剛健」が選ばれるようになりつつあった時期でした。

当時、会社には営業のできる社員がいなかったので、私が自ら、量販店に営業して回りました。石けんの業界ではロフトや東急ハンズといったお店へアプローチして、1社でも成功するとその評判が横に広がり、ドラッグストアなどが仕入れてくれるようになるんです。

もちろん、いきなりお店に売り込んでも、よく分からない製品だったら陳列棚には置いてもらえません。そこで、私はお店にいるスタッフに声をかけ、サンプル製品とともに「100時間かけて釜焚き製法でつくった石けんです」「つっぱらないので、身体だけではなく、顔も洗えます」といった手書きのメモをお渡ししていきました。

松山油脂のなかで最も古い作業場である釜場(かまば)。原料を釜に仕込むところから仕上がるまでに百時間かかる、昔ながらの「釜焚き製法」で石けんをつくっている。

また「私がご案内するので、一度工場にいらしてください」と声をかけ、実際に工場に来てもらって彼らから新しい製品やパッケージのアイデアをいただくこともありました。そのころを振り返ってみると、工場が東京・墨田区にあることは、製品開発の面でも、営業の面でも大きなメリットでしたね。

こうした取り組みを続けるうち、製品の魅力を分かってくださった方から担当のバイヤーを紹介していただけるようになり、ついに量販店との取引を開始できるようになりました。そこで売れるようになってからは、他の販売先とも続々と取引が決まっていったのです。

もう一つ着手したことは、直営店ビジネス「MARKS&WEB」の立ち上げです。これまでは、当社の製品は下請けの委託先から問屋を経由し、販売店に卸されてお客様の手元に届いていました。それを自分達で作って販売するようにしてしまえば、お客様からじかにニーズを聞きながら製品開発ができます。

2000年から本格的に直営店ビジネスに取り組んだおかげで、お客様の声をもとにして作った石けんやスキンケア製品は口コミで広がり、MARKS&WEBも全国展開するまでに成長していきました。

1995年に発売した、松山油脂の最初の自社ブランド「Mマークシリーズ」。洗うことから潤すことまで、家族みんなで使える暮らしの定番として、愛用者を増やしてきた。

父の反対。社員の半分近くが辞めても自社ブランドに取り組んだわけ

――新しい事業に舵を切った時、社内からはどんな反応があったのでしょうか?

松山: 父とは何度も衝突しました。父にとって松山油脂は人生そのものでしたし、長年、小さいながらも会社を守ってきた自負があった。息子からそのやり方を否定されるということは、人生を否定されるような気持ちだったんでしょう。父は、会議室で事業計画を話し合っている時は頭では理解するのに、翌日の朝には「俺はこういう思いでやってきたんだ。それを否定されてまで、おまえを応援したくない」となる。頭で分かっていても感情がついていかないんですね。

また、自社ブランドを持つことは、これまでお世話になってきた得意先と競合になるということなんです。得意先からすると、今まで仕事を与えて食わせてやってきた下請けが、自分達の領域に入ってきて競争相手になるわけですから「飼い犬に手を噛まれた」と面白くないし、父もそれがつらかったのでしょう。

社員からも反発がありましたね。当時は一番若い社員でも40代後半でした。当社に何十年も勤務するベテラン社員は、ずっと古い事業の中で昇進してきたから、これまでのやり方を守るほうが楽だし、退職金まであと3〜5年とカウントダウンに入っている。しかし、私が入社して見えたのは、5〜10年先は持たないであろう松山油脂の現実でした。

インドネシアやマレーシアから石けんやその原料のアブラヤシが低価格で日本に入ってくれば、国内の石けん市場は輸入商品が中心になっていくだろうし、価格も下がっていく。「下請けの固形石けんメーカー」のままで生き残れる状態ではなかったんです。私は社員達に「物差しを向こう3年から30年に変えて、会社の課題を一緒に見つめましょう」と何度も話しましたが、折り合わず、半数近くの社員が辞めていきました。

一番つらかったのは、会社の常務でナンバー2だった叔父に辞めてもらったこと。叔父と私は見ている時間軸が違ったので、経営方針をいくら話し合っても噛み合わなかったんです。当時、私は小さな成功や実績を積み上げていくことで、会社の新たな変化や進むべき道をみんなに理解してもらいたいと願っていました。しかし、そうしている間も会社の経営状況は刻一刻と厳しくなっていく。叔父や社員達が私に従うのを待っていられる状態ではなかったので、退職金を払って辞めてもらうしかなかったんです。

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