連載:第60回 経営危機からの復活
「二番煎じではないか」自社商品に自信を持てなかった4代目。会社に誇りを取り戻す挑戦がV回復の礎に
家業の鋳物メーカー石川鋳造に入社し、3年で社長に就任。時を同じくしてリーマンショックが到来し、赤字経営に転落。石川鋼逸社長が事業承継した時は、強い向かい風が吹いていました。そんな中、鋳物の良さを生かした「おもいのフライパン」を開発。一時は3年待ちの人気商品となり、会社はV字回復を果たします。チャレンジを繰り返してきた石川社長に当時の思い、今後の目標を伺いました。
石川鋳造株式会社
代表取締役社長 石川 鋼逸(こういつ)さん
1972年愛知県生まれ。1995年中京大学卒業後、母校・碧南高校野球部の監督に就任。高校教師、野球部監督を7年間務めたのち、30歳で石川鋳造株式会社に入社、2004年に先代から会社を引き継ぎ4代目社長に就任。2008年から新商品開発プロジェクトを立ち上げ、2017年に発売した「おもいのフライパン」は入荷3年待ちの大ヒットとなる。2020年6月肉のサブスクリプションサービスを開始。
前途多難な社長就任時。ながらタバコに出先で喧嘩する社員も
――石川鋳造で社長に就任するまでの経緯を教えていただけますか。
石川鋼逸さん(以下、石川): 私は小学生の頃からずっと野球が好きで、野球を習っていました。甲子園に出たいという思いから、野球の強豪高校に進学する予定でしたが、最終的に別の高校へ。甲子園への夢を諦めたものの、大学でも野球を続け、高校野球の監督になって甲子園への未練を晴らすべく教員免許を取得しました。
社会人になるタイミングでは、父親に「高校教師になって野球の監督をやりたい」と話し、「30歳までは好きなことをやれ」と認めてもらいました。そのため、必然的に、石川鋳造に入社したのは30歳の時でした。
ただ、泣く泣く教員を辞めて石川鋳造に入社したので、最初の1年間はかなり未練が残った状態で、仕事に身が入りませんでした。とはいえ、少しずつ野球にかけた情熱を鋳物の仕事に変えていきます。そして、3年目のタイミングで突然父親から社長交代を言い渡されました。
――社長就任当時、会社はどのような状況だったのでしょうか?
石川: 実は、私に経営がバトンタッチされてからすぐにリーマンショックが起き、創業以来はじめての赤字を出してしまったのです。
また、リーマンショックによって下請けの仕事が激減したことに加え、弊社の主力商品を取り巻く環境も時代の流れによって悪化していました。
まず、自動車のEV化に伴いアルミ部品の需要が低迷、弊社の主力商品「アルミ用鋳鉄ルツボ」の売上は最盛期の三分の一に。また、安定して注文のあった水道部品は公共事業が全国的に減ったことでこちらも減少傾向にありました。
先代から引き継いだ状態のまま経営を続けていたら、会社が潰れてしまうという危機感がありました。
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