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連載:第24回 ヒット商品を生む組織

創業以来最悪の経営危機、10年赤字だった新事業…絶対にあきらめなかった経営者がピンチから学んだこと。

BizHint 編集部 2023年5月16日(火)掲載
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被服縫製会社・八橋装院はコムデギャルソン、ヨージヤマモトの縫製を請け負う国内屈指の技術を持つ会社です。しかし、2000年当時、リーマンショックにより会社は創業以来の危機を迎えていました。また、2009年にオリジナルブランドを立ち上げた時には、「THE NPU」の業績が振るわず、プロジェクトは休止、中心メンバーだった新卒社員のほとんどが会社を離れてしまいます。2度のピンチをどのように乗り越えたのか、二代目社長の高橋伸英さんに経緯を詳しくお伺いしました。

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八橋装院株式会社
代表取締役 高橋 伸英さん

広島県広島市生まれ。1993年に入社、八橋装院の支社をはじめ、他社の工場などで服飾、縫製について学ぶ。2009年に創業者である父・英臣氏より会社を受け継ぎ、社長に就任。2011年には、自社ブランド「FUKUNARY」の展開をスタート。


過去最大のピンチからの2代目就任

―1993年にお父様が経営されていた八橋装院に入社されたそうですが、入社当時から経営が厳しくなっていたそうですね。

高橋: 最初に直面した危機は、バブル崩壊による経営難です。売り上げが落ち込み始めたのが私の入社した1993年からで、落ち込みのピークが2000年ごろですね。同時期に島根の出雲工場で生産管理をしていた私も広島本社に戻って経営、および営業に加わるようになりました。

その時が一番苦しくて、かつて広島、東京、島根の3拠点があり売上10億円、社員数130人もあった当社ですが、私が入社した1993年頃から、見る見る売上が下がり、社員は減っていく一方でした。

私が広島に戻ってきて早々に行ったのは、業務改革設備投資や従業員の給与引き下げなどです。何とか会社を維持していました。

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