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連載:第13回 ヒット商品を生む組織

「社員は不幸なのに会社は儲かる」は違うんじゃないか?ヒット商品を生んだ社長が「自身の経営は誤りだった」と自責した理由

BizHint 編集部 2022年8月17日(水)掲載
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「地元は人口が少ない、東京に行こう!」。年商と同額の6000万円の負債を抱え、材料費の支払いもできない状態だった広島・三原市の老舗和菓子店・共楽堂に、現社長の芝伐敏宏さんが戻った時に決意したことです。同社で古くから愛されていた和菓子の名称を変え、鞄に詰め込んで、アポ無しで東京へ。その時の偶然から「ひとつぶのマスカット」は同社のロングヒット商品となります。しかしその裏では、組織への負荷や古参社員との軋轢といった様々な課題がありました。そしてある日、芝伐社長が「自分の経営は間違っていた」と自責する出来事が起こります。その経緯や、そこから組織を立て直す取り組みについて伺いました。

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有限会社共楽堂
代表取締役社長 芝伐 敏宏(しばきり としひろ)さん

1969年広島県三原市生まれ。青山学院大学経営学部卒。大学在学時、東京プリンスホテルの製菓部にてアルバイト。その後、辻製菓専門学校で製菓を学ぶ。24歳で家業の共楽堂に戻り、専務に就任。1997年より現職。


年商と同じ額の借金、毎月の支払いも滞る。顧客名簿を見て腹を決めた

――芝伐社長が事業承継された経緯について教えてください。

芝伐敏宏さん(以下、芝伐): 当社は広島県三原市で、1933年(昭和8年)に祖父が創業した菓子店です。地元では手土産や贈り物に使われるような、比較的高額な商品を扱うお店でした。

現在は、旬の果物や野菜などを大胆に使用した和菓子「旬果瞬菓(しゅんかしゅんか)」などがご好評いただいており、百貨店を中心に全国で17店舗を展開しています。従業員数は正社員、パート合わせて約130名です。

事業承継についてですが、僕は昔から「いつか自分が、共楽堂を継ぐんだろうな」とは思っていました。東京での大学在学中から東京プリンスホテルの製菓部でアルバイトをしていて、大学卒業後は「もっと製菓を学びたい」と、専門学校に進みました。大学で東京には出たものの、数年間修行したら三原に戻ろうと考えていたんです。

そんななか、祖父の後を父が継がないことが確定。祖父から「お前がこの店を継がないなら、全部やめて土地や建物は三原市に寄付する」と言われ、「そこまで言うなら、やるわ!」と…店を継ぐことを決めました。そして専門学校を卒業し、三原へ。24歳の頃です。

当時は、僕が子どもの頃からいた古参社員3名と、社長である祖父、常務である母の少人数で経営していました。そこに僕が加わる形です。

――事業承継することに、迷いは無かったんでしょうか?

芝伐: 正直、迷いはありました。でも、自分が継がないとなれば、祖父が人生をかけてやってきたこと、その生きがいを失うことになると思ったんです。祖父に悲しい顔をさせるのは嫌だな…。その想いが強かったですね。

ただ、いざ帰ってきて経営状況の悪さに愕然としました。 銀行からお金を借りられず、社員のボーナスのために祖父は集めていた骨董品を売ってお金を工面するような状況。当然、取引先への毎月の支払もきちんとできていない……。だから、本店にかかってくる月末の電話は怖くて取れなかった ですね。

――負債としてはどれくらいだったのでしょう?

芝伐: およそ、6000万円ほどだったと思います。当時の年商が5〜6000万だったので、売上と同額かそれ以上ですね……。その状況を知っていたら、戻ってこなかったかもしれません。

ただそんなとき、店にあった顧客名簿を見たんです。そこには、地元の三原市から遠く離れた住所とお客様の名前が1000名以上ありました。それは共楽堂のお菓子を食べられて、わざわざ「送ってほしい」とご連絡いただいた方々の名簿でした。 もし共楽堂が無くなってしまったら、小さいかもしれないけどこの方々に「悲しみ」を与えてしまうことになる…。 一人ひとりの悲しみは僅かでも、それが集まればとても大きなものになります。

でも逆に、小さな幸せであってもそれを生み続けることができれば、それは総量で大きな価値になる。単純に比較することは難しいけれど、それこそ人の命を救うくらいの価値を生むことにもなるんじゃないか?とも思ったんです。それで、腹を決めました。

そして専務としての就任挨拶で、社員に対して「会社があまりうまくいっていないことは、みんな気づいていると思います。でも僕はこれまで本当に困った時、パチンコに行って負けたことはない!だから、絶対大丈夫!」と宣言しました。社員は困惑していましたが(笑)。でも僕は自分自身を本気で「ピンチに強い」と思っていましたし、 「自分が戻ってきたからには大丈夫!」ということを伝えたかったんです。その想いは真剣でした。

地元は人口が少ない。「だったら東京に行こう!」。アポ無し営業から催事に火がつく

芝伐: とはいえ、苦しい経営状況がすぐに好転することはありませんでした。どうしようかと悩む中で「人口の少ない三原で販路を拡大するのは難しい。だったら東京に行こう!」と考えました。大学時代は東京に住んでいましたし、シンプルに「人が多いから、売れそう」くらいの気持ちでした。

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