連載:第1回 日本企業 海外でのマネジメント
フィリピン最先端の街で起業した日本人。混沌下で貫く、後悔しない決断
「多くの日本人は英語がしゃべれないためにたくさんのチャンスを逃している」と語るのは、ステップフォワード株式会社 代表取締役の松原祥太郎さん。伊藤忠商事を退職後、無職期間を経て「人財支援」というコンセプトで起業し、フィリピン・マニラ最先端のビジネス街で語学学校を設立するに至ります。「自分で体験する、直接話を聞く」という一次情報と、様々な国・文化の多様性を何より大切にする松原さんがなぜ、そのような道を選んだのか?フィリピンでの起業・事業運営や、コロナ禍での事業転換など、目まぐるしく変わる状況下での決断・変化の日々を伺いました。
ステップフォワード株式会社
代表取締役 松原祥太郎 さん
1987年生まれ。筑波大学 第二学群人間学類(現・教育学類)卒業。2011年、伊藤忠商事株式会社入社。食品流通関連の業務に従事。営業、商品開発・マーケティング等を担当。また、新規取引先の開拓や地方企業との取組みにも注力。2017年に同社を退職し、かねてより関心が高かった教育やスポーツ等の分野にて挑戦すべく、2018年、ステップフォワード株式会社を創業。
進みたい方向性ははっきりしている。後悔だけはしたくない。
──なぜ、フィリピン・マニラで語学学校を開校することにしたのでしょうか?
松原祥太郎さん(以下、松原): ちょっと話は遠回りになるのですが、私はもともと小学校から大学までバスケットボールに打ち込み、また大学では教育系を専攻していました。そういった背景もあり、「教育とスポーツ」をテーマにした仕事をしたいと考えてました。
しかし大学を卒業して就職先を考えるにあたり、ビジネスに関して何の知見も持っていなかったことから、まずはしっかりとビジネスの実力を身に付けられる企業への就職を目指し、伊藤忠商事に入社しました。2011年のことです。
──伊藤忠商事ではどのようなお仕事をされていたのですか?
松原: 一貫して食品流通関連の業務に従事していました。営業、商品開発・マーケティング、輸入、管理業務などいろいろなことをやりましたね。とにかく幅広い経験をさせていただきました。
伊藤忠商事は素晴らしい会社でしたし、そこで最初のキャリアを築けたことは、自分としても財産だと思っています。共に働くメンバーにも恵まれていましたし、待遇や労働環境として大きな不満があったわけではありません。
しかし、伊藤忠商事に限ったことではないですが、大企業では自分の裁量で決められることはそれほど多くはありません。また、自分が進んでいきたい方向性と、会社から求められることとのギャップ・違和感が、少しずつ蓄積していきました。
「教育やスポーツの分野にチャレンジしたい」という想いは以前と変わらず持ち続けているのに、 実際には何もできていないことに葛藤 がありました。
──そして、退社という選択をされるのですね。
松原: はい。入社から6年後、2017年に退社しました。実は、伊藤忠商事に入社した時点で決めていたことがあったのです。 会社でキャリアを追求して行くのか、別の道で新しいチャレンジをするのか。その判断を30 才までにする ということです。当時は、まさに20代最後のタイミングでした。
伊藤忠商事には教育やスポーツの事業を手掛ける部署がありませんでした。かといって、自分がその分野で新規事業を提案し、形にすることは相当厳しいし、どれだけの時間を要するのだろうか―。そういったことを考えていると、大企業にいる安心感よりも「自分がやりたいことがいつまでもできない、自分のやることを自分で決められない」ことに、怖さやリスクを感じるようになったのです。
このタイミングを逃すと、後々 「あの時、ああすればよかった…」と後悔する可能性が高い と思いました。もちろん、会社に残っていたほうが素晴らしい人生があったかもしれません。しかし結局は、その後悔が心のどこかにくすぶり続けると思いました。
真剣に自分の人生に向き合う時間が必要だと思い、会社を辞めました。が、辞めた後に起業することまでは決めていませんでした。「後悔したくない」という気持ちが一番でしたね。あとは、もしうまく行かなくても、最低限生きていくことはできるだろう……と、どこか楽観的な思いもありました(笑)。
自分で体験する、直接話を聞く。一次情報の大切さ
──なかなか起業・開校の話が出てきませんね(笑)。辞めた後はどうされたのですか?
松原: まず行ったのは、自分が納得できる、後悔しない判断をするための情報収集です。社会人になって何より感じていたのは、情報収集の大切さでした。新聞や雑誌、インターネットなどを使うことは合理的ですが、これらのほとんどは二次、三次情報であることを心得ておく必要があります。
一方で、私が意思決定のために 何より重視するのは「一次情報」です。「自分が体験したこと」「当事者本人に話を聞くこと」。この2つを重視 しています。
そこで、本を読んだりニュースを見て気になる人がいれば、「お話をさせてください!教えてください!」と直接アプローチして情報を集めました。当然、無職の一個人として。SNSや企業のホームページなど、様々な窓口を使いました。ストレートにアプローチしてみると、「変なやつから連絡がきた。面白い」と応じていただけることが多かったですね。
まだ起業するとも決めていませんでしたし、転職先として気になる企業にも話を聞きに行っていました。
──何人くらいの方とお話しされたのでしょうか?
松原: 100名は超えていると思います。このような言い方をすると失礼ですが、本や記事にはとても良いことを書いてあるのに、実際に話を聞くとそれほど得るものはなかった……ということもありました。しかしそれは「私の勝手な期待と違っていた」というだけの話ですし、会ったからこそ分かり得たことです。そういった意味では、すべてが無駄ではありませんでした。
多くの先人が言っていますよね。 「百聞は一見にしかず」 。身に染みてそう思いますし、特に海外の情報はまさにそうだと思っています。
こうして情報を集めるうちに、『フィリピンと日本をつなぐ形での語学教育やスポーツ事業』に興味が高まっていきました。
マニラのBCGで日本人が会社を立ち上げる
──なぜ、フィリピンだったのでしょうか?
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