連載:第51回 成長企業 社長が考えていること
稲盛氏に論破・叱責され目が覚めた。経営者がバランスすべき2つの背反
稲盛和夫氏の生誕地・鹿児島でその哲学を守り続ける経営者の一人、濵田酒造株式会社の濵田雄一郎社長。32年前、経営危機をきっかけに盛和塾・稲盛氏に出会い「酒宴での問答」や「1対1のぶつかりげいこ」を重ねてきました。そんな中で自身の糧となったことは『稲盛さんからこっぴどく叱られた出来事ばかり』と言います。その叱責や、それを通じた経営者・会社としての成長について聞きました。
濵田酒造株式会社
代表取締役社長 濵田 雄一郎さん
1975年、家業である焼酎メーカーの濵田酒造に代表取締役専務として入社。1991年、盛和塾に入塾。1994年、代表取締役社長に就任。盛和塾閉塾後はその意志を継ぐ組織である鹿児島盛経塾の運営に携わる。いちき串木野市商工会議所元会頭、2017年より鹿児島県酒造組合会長を務める。
拡大路線が失敗し経営危機。そこで出会った稲盛和夫
――稲盛和夫氏との出会いのきっかけについて教えてください。
濵田雄一郎さん(以下、濵田): きっかけを遡れば、当社の経営危機に行き着きます。焼酎メーカーである当社は1980年代初頭の焼酎ブームの波に乗ろうと、当社は1983年に東京支店を開設し、問屋さんから大量の注文をいただきました。
注文に応えようと製造に励んだのですが…結局は「売れない」と言われ、倉庫には大量の在庫が残りました。問屋さんからの評判はよかったものの、消費者からの支持はなかったのです。
そこで資金繰りが大きく悪化。多額の借金を抱えることとなり、必死で銀行に頭を下げ、2年ほどかけて生き残りを模索しました。その後もいろいろなチャレンジをするのですが、思うように進まない。
そんな中で、あるニュースを耳にします。急成長している京セラを率いる、同郷・鹿児島出身の経営者・稲盛和夫氏による若手経営者向けの勉強塾が鹿児島でも開塾した、と。ちょうど2期生を募集しているタイミングでしたので、塾の扉を叩きました。
稲盛氏に引き付けられた理由は2つありました。1つは京セラの驚異的な成長の秘密を知りたかったこと。そしてもう1つは、京セラの社是「敬天愛人」。この社是は、当社が長年掲げていたものと同じでした。
社是はまったく同じなのに、結果がまったく違う…。その差は何なんだろう? その違いを率直に知りたかったですし、京セラのやり方で結果が出るのなら、ぜひそれに倣いたかったのです。
――京セラとの結果の違いの理由はわかりましたか?
濵田: 何より、経営における「フィロソフィ」の重要性です。決して観念的な意味ではなく、実務的な意味で。これはとくに組織の力を引き出すために必要です。
そして「アメーバ経営」。これはフィロソフィを実現する実践力として機能します。得たものは、大きくこの2つに帰結すると思います。
この2つを愚直に学び実践することで、当社は変わり、継続した成長ができるようになりました。もちろん長い年月がかかりましたし、また 稲盛塾長からの数えきれないほどのご指導・叱責 があったのですが。
稲盛塾長との激論「だから真っ当な企業が鹿児島から出てこんのや!」
――稲盛氏からの叱責というのは?
濵田: たくさんあるのですが、最初はお酒の席でした。経営者としての「考え方」について、けちょんけちょんに論破されてしまいました。
塾長が鹿児島に来られた時には、塾長例会(勉強会)が開催され、その後に飲み会をする習わしがありました。
私が初めて出席した時だったのですが、みんなで焼酎を飲みながら、塾長が私たちに対して、 『そろそろ西郷西郷とばかり言わずに、大久保を見習ってはどうか?』 と発言されたのです。
私は「ちょっと待ってください!それは聞き捨てならん!」「塾長のお言葉とは思えん!」と食ってかかったんです。私は初めて塾長例会に参加したことや、塾長と焼酎を酌み交わせる喜びとで気持ちが昂ぶっていました。
私を含め、多くの鹿児島人は西郷さんが大好き。大久保利通は、同郷でありながらその西郷さんを追い詰めた張本人。まさに敵なわけです。
この私の反論は、塾長には好都合だったようで、こう一喝されてしまいました…。本当に忘れられない言葉でしたし、ぐうの音も出ませんでした…。
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