連載:第46回 成長企業 社長が考えていること
“にわか経営”で疲弊していた組織を変えた稲盛和夫氏の言葉。 10年かけて浸透させた理念が組織を生まれ変わらせた
川村義肢はグループ売り上げ100億円を超える国内最大手の義肢メーカーです。しかし、代表取締役の川村慶さんの社長就任当初は慢性的な赤字体質で倒産の危機に晒されていたといいます。会社を立て直すために新しい経営手法を次々に取り入れ、業績は一時的に向上したものの、今度は社員が次々と離れてしまいました。そんな、川村さんの考えを変えたのは稲盛和夫氏の言葉でした。間違いとは何だったのか?そして、会社はどのように変わったのか。お話をうかがいました。
川村義肢株式会社
代表取締役 川村 慶さん
1969年大阪府生まれ。大学卒業後、母に促されて義肢装具士学校に入学。修業後、父の命によりドイツの義肢装具メーカーへ入社後に赴任。2000年、父の死去に伴い3代目代表取締役に就任、現在に至る。現在、川村義肢は一般的な義肢装具以外にも車いすの製造、パラアスリートの技術支援、住宅のバリアフリー改修など幅広い事業を手がけている。
ビジネス書で仕入れた経営手法を導入するも、社員は離れていった
――社長就任時、約70億の負債を抱えた状態だったと聞きましたが、ご存知の上での就任だったのですか。
川村: 2代目の父が亡くなり、私が31歳の時に社長に就任しました。
年商68億円で70億円の負債がありました。負債は主に、現在の建屋の土地代と建物代によるものでした。
私がドイツの義肢装具メーカーに勤務していた頃、現地に母親が遊びに来ましてね。社員の健康を重視したヨーロッパの先進的な工場を見て大いに感動し、うちの工場もこういう設計にしよう…という話になったのです。
当時は600人程度まで従業員が増え、いろいろな場所に工場や建屋が分散して建っている状態でした。それを1つにまとめることで、業務の効率化はもちろん“知の結集”を図れるのではないかと、投資を決めたようです。当時の状況から考えると明らかな過剰投資ですが、情けないことに私自身は“自分が作った借金じゃないから大丈夫だろう”程度の考えでした。
ただ、投資に見合う利益を当時は出せていませんでした。当時の義肢装具はオーダーメイドの側面が強く、職人の世界だったんです。当然、コスト意識もなく、当初見込んでいた業務の効率化も果たせていませんでした。
その上、公的介護保険制度の施行も会社を苦しめることになりました。収益サイクルが激変してしまい、キャッシュフローに相当苦労しました。
そうなると他人事にはできません。なんとか月々の負債を返し、業績を上向かせるべく、ビジネス書を読んで「これ、ええな」と思ったことは片っ端からやっていました。そこからいろいろな経営手法を付け焼き刃的にどんどん試みるようになりました。
――その結果、経営状況は改善されましたか。
川村: たとえば、コストカットや業務の効率化、赤字部分の閉鎖、新たに既製品の販売を拡充するなど、本で見たことを真似てみると、一旦は経営は持ち直しました。ただ、その“にわか経営”に付き合っている社員がだんだん疲れてくるんです。
この記事についてコメント({{ getTotalCommentCount() }})
-
{{comment.comment_body}}
{{formatDate(comment.comment_created_at)}}
{{selectedUser.name}}
{{selectedUser.company_name}} {{selectedUser.position_name}}
{{selectedUser.comment}}
{{selectedUser.introduction}}