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連載:第7回 老舗を 継ぐということ

業界100年の商習慣はなぜ変えられたのか。社長急逝で継いだ孫。職人との執念が実る

BizHint 編集部 2019年11月25日(月)掲載
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関東生まれ関東育ち、大阪・泉州にある祖父のタオル工場には「人生で1~2回しか足を踏み入れたことがなかった」と語るのは現社長の神藤貴志さん。祖父の急逝により28才で100年企業を継ぎ、キャッシュフロー改善のため付加価値の高い製品開発・市場開拓に取り組み、今では百貨店でも取り扱われる「2.5重ガーゼタオル」を開発。その承継や職人との関わりについて聞きました。

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(プロフィール)
神藤タオル株式会社
代表取締役社長 神藤貴志 さん

大阪・泉州地域で100年以上に渡ってタオルを作り続けている老舗メーカー「神藤タオル」に大学卒業と同時に入社。入社から6年後28才の時に、5代目社長である祖父の急逝により6代目社長に就任。自社ブランド商品「インナーパイルタオル」や「2.5重ガーゼタオル」などを開発し、雑貨店やセレクトショップに市場を拡大。

「継ぐか、継がないか」大学3年、祖父から事業承継の決断を迫られる

――入社の経緯を教えていただけますでしょうか?

神藤貴志さん(以下、神藤): 普段は物静かな祖父から 「将来どうするんや?」「お前が継がんのやったら、会社を畳む準備を始めなあかん」 と言われ、

『わかった。大阪行く』 と答えたのが始まりでしたね。

私は川崎市で生まれ育ち、大学まで関東で過ごしました。大学3年生になってすぐ、大阪・泉州でタオル工場を営む祖父が突然、珍しく東京に来ると言うのです。「話がある」と。その話の内容について家族は話題にしませんでしたが、タオル工場の今後のことだろう、ということは雰囲気から察していました。

私の父は幼少期を泉州で過ごしてはいるのですが、長年東京で働いていて、母も含め東京に生活の基盤がありました。なので、父が継ぐという選択肢がないこともまた暗黙の了解。私に話があるのだろうな……と。

祖父は多くは語らない人でした。久しぶりに会う祖父と、祖父のストレートな言葉を前にして、私は正直圧倒されていたと思います。「待ってほしい」という選択肢はありませんでしたね。

とはいえ、私はまだ就職活動に本腰を入れる前のタイミング。別段の将来設計もなかったので、「祖父が強い思い入れを持って守ってきた100年の暖簾を下ろしたくない」という気持ちを優先し、「大阪に行く」と腹をくくりました。

――入社してみて、いかがでしたか?

神藤: 大学を卒業し、大阪・泉州に来てみると、本当に違和感だらけ。まさに別世界でした。泉州訛りは自分の知っている大阪弁とは違っていて、会話も聞き取れない。もちろんタオル工場にはそれまで足を踏み入れたこともなかったので、右も左もわかりませんでした。

そんな中、先輩社員の方々にまずかけられた言葉は「よう、来てくれたなぁ」というもの。祖父は高齢で、後継者がいなくて会社を畳むことも考えるような職場です。今思えば、 私が「後継者」とやってきて、会社が存続する可能性が見えたこと自体に、安堵されたのかもしれません。 「もし社長が倒れたら……」「社長が会社を畳むと言ったら……」そんなことを考えながら毎日仕事を続けるのは、不安だったのかもしれないなぁ、と。

一方、私は私で目の前のことに必死で「いずれ社長になる」という意識は微塵も持てませんでした。タオルについての知識はゼロでしたし、ビジネスのイロハもわかりません。大学を卒業し、 一社会人としてゼロからスタート 、というスタンスでした。

祖父が急逝し、引き継ぎなく社長に。幸運にも「いつも通り」という選択ができた

――後継者として、まずどんなことに取り組みましたか?

神藤: 祖父からは「まずは現場に入ってタオル製造の流れを理解し、その後に会社全体を把握するように」と言われていたので、何もかもガムシャラに覚えようとしました。しかし、現場の職人からは細かい部分までは教えてもらえず、逆に「そこまで知らなくていい。できなくていい」と止められました。

祖父は「現場を知れ」と言い、現場の職人は「そこまで知らなくていい」と言う。当時は単純に(今後、経営者となる私には、一職人の技術までを身につける必要はないよ)という職人の心遣いだと思っていました。しかし今になって思えば その心遣いは「私が知っておくべき現場の知識」の“線引き”を、職人自身が、自分で考えていたのだと解釈できます。

祖父は普段物静かで、 細かい指示は出しませんでした。基本的に社員の考えや行動を尊重していたと思います。 ただ本当に稀に、叱ることがありました。叱るときは、誰か一人ではなく全員です。 叱るポイントを全員に共有する意味もあった と思います。そして叱った後は、わだかまりを引きずらない。これが、祖父のコミュニケーションの取り方でした。

その結果当社では、社長が指示を出さなくても社員が自主的に考え、行動する基盤が築かれていったのではないかと考えています。そういった背景があったからこそ、 私が入社後に様々な社員に教えを乞う中で、私に対し「これは必要、これは不要」といったことをそれぞれ判断してアドバイスしてくれたのだと思います。

私も含め、社員の多くが祖父からよく注意されたのは「整理整頓」について。 ルールどおりに整理整頓がなされていれば、それぞれが考え・行動するにあたってのベースが統一できる。 というメッセージだったと思っています。

――先代社長・お爺様が急逝された時のことを教えてください。

神藤: 祖父の享年は87歳。いつ倒れても不思議はなかったのですが、心身ともに丈夫な人で、それまでいなくなることが想像できなかったんです。だから、引き継ぎの話を全くしていませんでした。

祖父が倒れた後、さすがにまずいと思い病床の枕元で「引き継ぎはどうしようか?」と相談したところ『退院したらぼちぼち始めようや!』と話すくらい、最期まで気力に満ち溢れていました。そして結局引き継ぎの機会は訪れないまま、一ヶ月後、祖父は他界しました。

私はとりあえず、社長に就任しました。不安はありましたが、当時、祖父がいないと何もできない社員は一人もいなかったので、大変なことは覚悟の上で「やっていける」と確信していました。私は入社6年目、28歳の時でした。

泉州タオル100年で初。ニーズに応えて縫った「タグ」が市場を拓く

――社長に就任されて、まず何をされたのでしょうか?

神藤: 祖父が築き上げた現場はしっかりしていて、既存の業務は問題なく回っていましたので、まずはそこを 崩さないようにすることを重視しました。 一方、社長就任後に会社の状態をつまびらかにしていく中で気になったことがありました。「キャッシュフローの弱さ」です。これは、タオル業界独特の流通・販売の事情に関係します。

タオルの流通は大きく2つに分けられます。1つは「卸」、もう1つは「小売・百貨店」です。卸では重さで価格が決まる匁方(めかた)売りが主流なのですが、これは長年にわたって中国製などの安価なタオルとの価格競争になっています。泉州タオルの産地的にもいわゆる薄利多売な状況がずっと続いている状態でした。ここで勝負しても、なかなか勝ち筋は見出せません。

もう一方の「小売・百貨店」。当社としてはこちらで勝負したいところでしたが、百貨店が定める「商品誤差何%」といった規格がネックになっていました。神藤タオルには固定ファンのついた優しい肌触りの「インナーパイルタオル」というオリジナル商品がありました。しかしこのタオルは製法的にサイズの誤差を小さく揃えることが非常に難しい。結果、インナーパイルタオルの取り扱いは、百貨店に認めてもらえなかったのです。

社長就任後、「インナーパイルタオル」をはじめとした 付加価値の高い製品にどうやって光を当てるか?どうやってより良い売場で扱っていただくか を考え続けました。しかし、なかなか答えは見つかりませんでした。

――「インナーパイルタオル」。今では百貨店でも見かけます。

神藤: はい。事態はまったく別のできごとから動き出しました。 「タオルにタグを縫いつける」。たったこれだけのことから、小売店への道が開けたのです。

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