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連載:第75回 経営危機からの復活

「経営の素人」だった社長。決死のV字回復

BizHint 編集部 2024年10月18日(金)掲載
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宮崎県延岡市で養殖ブリ類の加工、販売を手掛ける株式会社新海屋。創業からわずか2年で自社工場を有するまでに成長しました。しかし、工場建設初年度の決算では多額の赤字を計上し、会社は倒産寸前の経営危機を迎えます。このピンチをきっかけに社長の小川さんは経営者としての在り方を根本から見直します。その結果2016年には大きく増収増益し、見事に経営改革を成功させました。現在の事業展開に至るまでの道のりを、小川さんに詳しく伺いました。

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株式会社新海屋
代表取締役社長 小川 裕介さん

1978年生まれ。宮崎県延岡市出身。2011年に水産会社での9年間の経験を生かして株式会社新海屋を創業する。2015年に稲盛和夫氏が主宰する「盛和塾」に入塾。2020年にコロナ禍をきっかけに通販事業「鰤屋金太郎」を開始して成功を収めた。現在は海外への水産加工品の輸出事業のほか、スポーツ教室、飲食店など多角的に事業を展開している。


4本の包丁から始まった起業の経緯と経営危機

――新海屋を創業された経緯について教えていただけますか。

小川 裕介さん(以下、小川): 叔父が経営する水産会社で9年間働いた後2011年に起業しました。当時は、資金なし、販路なし、社員も私だけまさにゼロからのスタートでした。

起業当初は今のように水産加工業ではなく、早朝3時頃から海上の生け簀から魚を水揚げして、市場のセリに持っていく仕事を手掛けていました。今日は、魚の値が安かった、高かったと一喜一憂する毎日でした。

仕事を続けて半年、1年と経過する中で取り扱う魚の数量も増え、それに合わせて生け簀や船、フォークリフトやタンクなど少しずつ設備を整えていきました。もちろん、新品を注文する余裕はなかったのでとにかく安くて程度の良い中古を探していました。

事業は少しずつ成長し、私はより付加価値をつけられる魚の加工事業へ進出することにしました。加工事業は順調に成長し、2012年の年商は9億円を達成、社員・パートも10名くらい雇えるようになりました。そこで事業のさらなる成長を狙い、2013年4月に投資総額1億2000万円をかけて魚の加工場を建築したのです。

しかし、加工場での勤務経験もなく、「経営」とは何かを理解していなかった私はすぐにつまずくことになりました。

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