連載:第2回 100億の壁 それぞれの突破法
牡蠣で100億・日本一。経営者が振り返った3つの分かれ道と、最大の反省
広島の牡蠣で圧倒的な売上を誇るクニヒロ株式会社。年間約4500トンの牡蠣を出荷し、国内トップの取扱量(シェア約15%)を長く維持し続けています。2代目社長として、売上を30億円から100億円へと躍進させたのが、川﨑育造さん(現会長)。圧倒的なトップダウン、率先垂範で邁進しての100億でしたが、そこから「100億の壁」にぶち当たります。その要因について「悔いはないが、反省はしとる」と語る川﨑さんに、同業他社ではなく、なぜ同社が日本一になれたのか?また反省とは何なのか?伺いました。
クニヒロ株式会社
代表取締役会長 川﨑 育造さん
売上100億円へ躍進も。経営コンサルタントの指摘が現実に
ーー貴社の代名詞とも言えるのが「牡蠣で100億」です。
川﨑育造さん(以下、川﨑): もともと「尾道の会社で1番になりたい」と思って目指した数字なんです。それが「売上100億」。1996年に119億になり、その時に尾道でトップになったはずです。
1980年代、売上が30億くらいの時に「100億にする!」と宣言しました。僕は当時専務だったのですが、みんなが「やりましょう!」と背中を押してくれました。設備も技術も金もない。 出せるのは知恵と肉体だけ。そういう環境だったからかもしれませんが、皆が同じ方向を見ていたと思います。
例えば1970年代半ば、自社で冷蔵冷凍庫を建設して、もともとの卸問屋から加工業に進出しました。10トンしか凍結能力のない倉庫でどうやったら20トンを扱えるか?をみんなで考えました。「1回冷凍したものを抜いて、夜中に2回目を入れたら20トンにできるじゃないか!」と発想して、夜中に仕事をするのも全然辛くありませんでした。何でも自分たちで考えて、何でも自分たちでやっていましたね。
当時のクニヒロは、時代背景もあると思いますが、本当に団結力と勢いがありました。
しかし100億を超えた後、見事に「100億の壁」にぶち当たりました…
――15年ほどで売上を30億から100億というのはすごいことです。
川﨑: そう仰っていただけるのはありがたいのですが、100億の壁を越えられなかったことについては、振り返って思い至ることがたくさんあるのです。
「後悔はしていないが、反省はしとる…」 という言葉がしっくりきます。僕には、大きく足りないものがありました…。
――どういうことでしょうか?
川﨑: 売上が75億くらいの時、経営コンサルタントに経営状態を診断していただいたんです。そして「100億は超えるでしょう」という評価をいただきました。ただ、それに続く一言が重かった…。
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バックナンバー (2)
100億の壁 それぞれの突破法
- 第2回 牡蠣で100億・日本一。経営者が振り返った3つの分かれ道と、最大の反省
- 第1回 勝ち筋を見つけた三代目。衰退産業にあった「2つの強烈な確信」