連載:第1回 社史から探る 大企業の転換点
ホンダの2度の倒産危機・復活に凝縮される、本田宗一郎の真の凄さ
業界を代表する大企業の成長過程における「ターニングポイント」を探る企画。第1回は本田技研工業です。創業者の本田宗一郎はなぜ、100社以上あったオートバイメーカーの中で勝者になりえたのか?なぜ、成長途上のホンダは2度の倒産危機を乗り越えられたのか?社史研究家の杉浦泰さんに伺います。
本田宗一郎が好きなものは「自動車」ではなかった。
──今回のテーマは、本田技研工業(以下、ホンダ)です。
杉浦: 今でこそ巨大企業に成長したホンダですが、「つぶれるかも」と世間から評されるほど悪い時代のホンダの実態は意外に知られていません。
ホンダの苦境は歴史上2度ありました。1955年前後と1965年前後です。 1度目は二輪車が絶不調だった時。この時期に実はホンダは倒産するとまで言われていました。2度目はホンダが乗用車に進出して量産工場を立ち上げた時。「ホンダに黒い噂が……」など、メディアに危うい記事がたくさん掲載されました。
このふたつの時期を見ることで、経営者・本田宗一郎のいいところと悪いところが浮かび上がってきます。それを知らなければ、本田宗一郎が名経営者である本当の意味は理解できません。
──本田が浜松に本田技研工業を創業したのが1948年、それから7年後の1955年に最初の危機が訪れることになりますね。
杉浦: 1950年代、浜松には大量の二輪車メーカーが存在していました。1953年の1年間だけで113社も二輪車に新規参入しています。3日に1社というペースです。
何より、 二輪車は「儲かる商売」であり「誰にでもできる商売」 でした。
社会的な背景として、日本が高度成長期にさしかかる直前だったことが大きな要因です。当時、裕福ではない一般の人の移動手段は徒歩か自転車か電車。とてもではありませんが、四輪自動車は買えませんでした。
四輪乗用車では、トヨタの初代クラウンが1955年に発売されています。同じ年に日産はダットサン110型系、210型系を出しています。クラウンを買うのは主にタクシー会社で、ダットサンは医者が主な購買者でした。当時の四輪車は今では想像できないほどの超高級品だったのです。
四輪車を買えない中堅の会社などは三輪自動車を利用していました。三輪自動車はいまでいうトラックの代替品。1950年代の三輪車のトップ企業は、今のマツダとダイハツでした。この2社は当時、三輪自動車が主力事業だったんです。
ですから、この時代に一般の人たちが手軽に移動する手段としてヒットしたのが自転車から派生した二輪車でした。二輪車が活躍したのは主に商店街のなか。いろいろな商店をまわって配達できる二輪車がすごく受けたんです。
後からホンダの創業物語をみると『ホンダだけが二輪車に着目して成長した』と単純化されたストーリーも散見されますが、そんなことはありません。 ホンダはあくまで200社を超える二輪車メーカー(1954年時点)のうちの1社に過ぎなかった のです。
──二輪車への参入が相次いだ53年から2年後。1955年に何が起こったのですか?
この記事についてコメント({{ getTotalCommentCount() }})
-
{{comment.comment_body}}
{{formatDate(comment.comment_created_at)}}
{{selectedUser.name}}
{{selectedUser.company_name}} {{selectedUser.position_name}}
{{selectedUser.comment}}
{{selectedUser.introduction}}
バックナンバー (3)
社史から探る 大企業の転換点
- 第3回 社長解任の連続。3度のクーデターにも揺らがないノーリツ「卓越したビジネスモデル」の強さ
- 第2回 時価総額1.9兆円、営業利益率51%超。オービック「採用は新卒のみ」の歴史的必然
- 第1回 ホンダの2度の倒産危機・復活に凝縮される、本田宗一郎の真の凄さ