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連載:第1回 社史から探る 大企業の転換点

ホンダの2度の倒産危機・復活に凝縮される、本田宗一郎の真の凄さ

Logo markBizHint 編集部 2020年4月12日(日)掲載
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業界を代表する大企業の成長過程における「ターニングポイント」を探る企画。第1回は本田技研工業です。創業者の本田宗一郎はなぜ、100社以上あったオートバイメーカーの中で勝者になりえたのか?なぜ、成長途上のホンダは2度の倒産危機を乗り越えられたのか?社史研究家の杉浦泰さんに伺います。

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本田宗一郎が好きなものは「自動車」ではなかった。

──今回のテーマは、本田技研工業(以下、ホンダ)です。

杉浦: 今でこそ巨大企業に成長したホンダですが、「つぶれるかも」と世間から評されるほど悪い時代のホンダの実態は意外に知られていません。

ホンダの苦境は歴史上2度ありました。1955年前後と1965年前後です。 1度目は二輪車が絶不調だった時。この時期に実はホンダは倒産するとまで言われていました。2度目はホンダが乗用車に進出して量産工場を立ち上げた時。「ホンダに黒い噂が……」など、メディアに危うい記事がたくさん掲載されました。

このふたつの時期を見ることで、経営者・本田宗一郎のいいところと悪いところが浮かび上がってきます。それを知らなければ、本田宗一郎が名経営者である本当の意味は理解できません。

──本田が浜松に本田技研工業を創業したのが1948年、それから7年後の1955年に最初の危機が訪れることになりますね。

杉浦: 1950年代、浜松には大量の二輪車メーカーが存在していました。1953年の1年間だけで113社も二輪車に新規参入しています。3日に1社というペースです。

何より、 二輪車は「儲かる商売」であり「誰にでもできる商売」 でした。

社会的な背景として、日本が高度成長期にさしかかる直前だったことが大きな要因です。当時、裕福ではない一般の人の移動手段は徒歩か自転車か電車。とてもではありませんが、四輪自動車は買えませんでした。

四輪乗用車では、トヨタの初代クラウンが1955年に発売されています。同じ年に日産はダットサン110型系、210型系を出しています。クラウンを買うのは主にタクシー会社で、ダットサンは医者が主な購買者でした。当時の四輪車は今では想像できないほどの超高級品だったのです。

四輪車を買えない中堅の会社などは三輪自動車を利用していました。三輪自動車はいまでいうトラックの代替品。1950年代の三輪車のトップ企業は、今のマツダとダイハツでした。この2社は当時、三輪自動車が主力事業だったんです。

ですから、この時代に一般の人たちが手軽に移動する手段としてヒットしたのが自転車から派生した二輪車でした。二輪車が活躍したのは主に商店街のなか。いろいろな商店をまわって配達できる二輪車がすごく受けたんです。

後からホンダの創業物語をみると『ホンダだけが二輪車に着目して成長した』と単純化されたストーリーも散見されますが、そんなことはありません。 ホンダはあくまで200社を超える二輪車メーカー(1954年時点)のうちの1社に過ぎなかった のです。

──二輪車への参入が相次いだ53年から2年後。1955年に何が起こったのですか?

杉浦: 「日本二輪車産業における構造変化と競争(太田原準・経営史学34(4))」に1955年の『二輪車の合計撤退社数』が載っています。137社です。53年に113社が参入して2年後に137社撤退している。すごいですよね。3日に1社という撤退ペースです。何が起こったか?端的に言うと、ちょっとした経済不況がきてしまったんです。このときに体力のないメーカーが続々とつぶれていきました。ここがホンダのひとつ目の試練となります。

──それにしても浜松にはなぜこんなにも二輪車メーカーが多かったのですか?

杉浦: 浜松には天竜川という江戸時代に頻繁に氾濫していた暴れ川があります。それをなんとかしようと、金原明善という人が上流の山で植林をし、その材木を活かして産業振興を行いました。それを形にした企業のひとつがピアノのヤマハで、織機を作り始めたのがいまのスズキです。織機の場合、時代の進歩につれて主要部品が「木材」から「金属」に変化し、必然的に機械産業がおこってきます。

そして戦争が始まると、それまで織機や鉄道、楽器をやっていた浜松の会社は軍需産業に転換し、その過程で大量の工作機械を買い入れます。ところが戦後を迎えると、せっかくの機械がいらなくなってしまう。困ったのが機械の職人さんです。

その時にひねり出したのが二輪車の製造です。特定の地域に工作機械を使う職人が密集していましたから、ひとりが良いアイデアを思いつくと皆が一気に真似をする。こうして浜松は終戦直後に二輪車産業の町として栄えたのです。

二輪車が誰にでもできる商売だったというのは、実はほとんどの二輪車メーカーが、主要部品を外部から買ってきて「少し加工する」という商売をしていたからです。ホンダも事情は同じで、軍が使用していた通信機向けの小型エンジンを大量に買い集めて、少し加工して自転車に取り付け可能にしたことが二輪車事業のスタートでした。

そういった背景からも、戦争中から工作機械を扱っていた職人さんにとって、二輪車は「参入障壁が低い」事業だったのです。

──そこで本田宗一郎と機械産業の出会いがあった。

杉浦: 今、本田宗一郎という人物を振り返ると「自動車好きのおじさん」という印象・評価があるかもしれません。しかし、 彼が本当に好きなのは「工作機械」 でした。本田宗一郎は工作機械のカタログを取り寄せては「ああ、これ買いたいな~」と夢想していたそうです。

彼が集めていたのは、アメリカのマーグ社など海外一流企業の工作機械のカタログ。 当時の日本の工作機械は精度が悪かった と言われています。良い製品を作るために、欧米の高性能な工作機械を買うことで生産効率を上げる……。本田宗一郎の頭には、そんな意識がありました。 ホンダの歴史を考える上で、彼の「工作機械」への異常なこだわりはとても重要なポイント になります。

資本金600万円で、4億円分の工作機械を買う。

──工作機械……どのような影響を及ぼすのでしょうか?

杉浦: 二輪車への新規参入企業が次々と出てくるなか、本田宗一郎は52~3年に一大投資をします。欧米の高級な工作機械を買って買って買いまくったのです。当時のお金でなんと4億円!それに対してホンダの資本金は600万円!……正直、クレイジーとしか言いようがありません。当時の論調も、もちろんそのようなものでした。

──そして1955年の不況がやってきます。

杉浦: その年、137の同業他社が撤退しました。ホンダも業績はどん底です。当たり前ですよね。4億円で工作機械を買って、そこに不況がきたら、どうしようもありません。当時のメディアはホンダの経営をボロクソに批判しています。たとえば、1956年4月28日号のダイヤモンドは「技術者は、高能率の機械を見ると、すぐ惚れこむ。そして高い金を出してその機械を購入する。ところが、買ってみるとなかなか使い切れない」と批判しました。

──巨額投資は評価されなかった。

杉浦: 本田宗一郎がどういった気持ちで工作機械を買い入れたのかは当時の社内報や、日経新聞の私の履歴書という連載記事に残っています。「なぜ4億の工作機械を買ったか?それは仮にホンダが倒産しても、工作機械は日本に残って、それが日本の産業を育てるからだ」と。

引用:1962年8月連載・日本経済新聞「私の履歴書(本田宗一郎)」(原文ママ) 私はこの際生産機械を輸入すれば、たとい会社がつぶれても機械そのものは日本に残って働くだろう。それならどっちにころんでも国民の外貨は決してムダにはなるまいという多少感傷めいた気持ちもあった。 いずれにせよ、このままでは世界の資本自由化の波にのまれてしまうことは必至である。世界の進歩から取り残されて自滅するか、危険をおかして新鋭機械を輸入して勝負するか、私は後者を選んだ。ともに危険である以上は、少しでも前進の可能性のある方を選ぶのが経営者として当然の責務であると判断したからである。こうして当時わずか六千万円の資本金しかない会社がストロームという自動旋盤やその他の工作機械をスイス、アメリカ、ドイツなどから四億円も購入した。

……おお、そう割り切ったか(笑)とも読めます。もちろん、本心かもしれません。彼は工作機械が好き過ぎて、工作機械こそが二輪車産業の競争を進める上で有利になると考えました。しかし、ギリギリのところで「日本のため」という発想がなければ、本田宗一郎はここまで名経営者として評価されるには至らなかったと思います。

──ホンダのために工作機械を買いながら、最終的には日本のことを考えていると。

杉浦: 当時はいわゆる外貨規制があって、工作機械を買うにも許可を得ないといけませんでした。工作機械の購入許可は通産省から出ます。裏を読めば、通産省受けをねらってそういう話をした可能性もあります。

──当時の世間の評価について、ほかに資料はありますか?

杉浦: ホンダとは逆に、この当時賞賛された二輪車メーカーがありました。東京発動機という会社です。先ほどと同じ論文資料の中に「50年代の二輪車の主要企業」という表があります。55年を見ると東京発動機はシェア20.2パーセントで1位。2位がホンダ。この時は東京発動機が二輪車業界のスター的存在だったことがわかります。

当時の経済メディアは次のような評価をしています。「ホンダは巨額投資でだめになってしまった。それに対して東京発動機はなんて堅実な企業なのだろう」。東京発動機はもともとモーターに強みがあった会社で、戦後、東京の板橋にあった軍需工場を二輪車に切り替えて急激に伸びた上場企業です。

引用:1955/06経済展望 東京発動機(トーハツ)もいつの間にか出世したものである。2、3年前東京市場に初登場した当時は、こんな町工場では、デフレにひとたまりもなく消え去るであろうと言われたものであるが、意外に強靭さを発揮して、本田技研を凌ぐ優良会社にまでのし上がっている。

倒産も噂されるホンダ。シェア1位の企業による買収話も。

――当時の経済誌に賛同しそうになりますが……

杉浦: 実際、当時のホンダは倒産するという噂が流れていました。 東京発動機の社長がホンダのメインバンクである三菱銀行にホンダを買収したいと掛け合ったそうです。しかし、買えなかった。

引用:1966「敗軍の将、兵を語る」 (東京発動機元社長が当時を振り返った発言) いまトーハツは日の出の勢いです。本田さんがつまずいたのはジュノオの製作上の誤りだけでなく、あまりに設備投資に金をかけすぎたからです。まるで飛行機を作るような機械まで入れている。私は、このさい、本田の成増の工場を譲ってもらいたいと思っているが、ご尽力いただけないでしょうか。

三菱銀行の京橋支店が、ホンダを助けたいとお金を融通したんです。それでホンダは倒産を逃れた。 逆に言えば、これがなかったらホンダは消えていた んです。1年に137社が倒産する業界で、追加でもう1社なくなるだけです。おそらく、ホンダという企業も忘れ去られていたはずです。

──三菱銀行はなぜホンダを助けたのでしょう?

杉浦: 常務の川原福蔵という方がホンダに惚れ込んでいたそうです。彼が、まだ町工場レベルだったホンダに足を運んだ際に掲げられていた社是「世界的視野に立て」に何か感じるものがあったようで、その後部下に「ホンダを調査するように」と命じています。

――55年を乗り越えたホンダはその後どうなったのですか。

杉浦: その後のホンダは本当にすごかった。55年以降、二輪車のシェアをぐんぐん伸ばしています。60年のシェアは40%。一方、東京発動機のシェアは急落し4.2%。そして1964年には会社更生法の適用申請を行い、東京発動機は二輪車から永久に撤退してしまいました。

――本田はなぜ急激にシェアを伸ばせたのでしょうか?

杉浦:4億円の工作機械 です。それがあったからこそ、伸びたのです。工作機械というのは操作・取り扱いが難しく、特に欧米の工作機械ということもあって、ホンダの職人が慣れるのに大変だったらしいです。工作機械を導入して数年経ち、ようやくいろいろな製造法が確立してくる。職人が慣れ、量産の軌道に乗せられたのが60年代だったんです。

ホンダがスーパーカブを出したのが58年。スーパーカブがホンダの飛躍のきっかけ、という見方は多くの所でなされますが、違う角度で見れば、 スーパーカブを「量産できるだけの工作機械があり、従業員が使いこなせる技術を蓄えていたから」とも言える わけです。

そしてその出発点は、本田宗一郎の「工作機械」への志向だったわけです。

──その後、ホンダはどんな施策を進めるのでしょうか。

杉浦: 60年前後、ホンダは二輪車を量産するために三重県に鈴鹿工場を建てます。まわりはほぼ田んぼなので、工場の敷地をどんどん増やせる。量産体制をどんどん進めることで、ホンダは二輪車の価格を一気に下げ、町工場に毛が生えたような他社は追随できない状況となります。

当時、製品レベルで「素晴らしい二輪車を作るんだ!」という会社はたくさんあったのですが、「高性能な工作機械を使って、量産レベルで素晴らしい二輪車を作る!」という会社はありませんでした。なぜなら、工作機械は非常に高いからです。

本田宗一郎のように「資本金600万円に対して4億円という投資」が決断できる経営者は、他にいませんでした。 当時の二輪車産業にいた方は、言ってみれば気の毒です。そんなクレイジーな人と戦わないといけなかったのですから。

巨額投資の後にまたも不況。「ホンダは問題会社」の見出しも。

――ただその後、ホンダは2度目の苦境に陥るわけですよね。

杉浦: ホンダは55年から急激に二輪車で売上を伸ばし、利益率も上がっていきます。55年の売上高純利益率は1.1パーセントでしたが、翌年には11.2パーセント。製造業ではおそろしいほどの高水準です。しかも、これがしばらく続きます。

しかし第2のターニングポイントとなる65年、純利益率は3.8パーセントまで落ち込んでいます。

――何があったのでしょうか?

杉浦: 本田宗一郎の経歴は四輪乗用車の修理工から始まっています。彼はひたすら四輪車をやりたかった。四輪車は多額の資本投下がいるから、まず二輪車をやって工作機械を借り入れ、それを四輪車に移そうというのが彼の狙いでした。60年に二輪車でシェア60パーセントとなり、いよいよ四輪車をやろうとなったわけです。

60年代、日本人の所得は上がって、多くの人が四輪車を買えるようになります。ところが四輪車はすごく競争が激しかった。まずトヨタ、次に日産がいた。ほかにいすゞや日産に合併されたプリンス自動車などもありました。三輪車組だったダイハツ、マツダも参入してきます。ホンダも四輪車の立ち上げにはなかなか苦労していました。

そんな中、65年には不況の波が押し寄せて、業界再編がスタートします。日産自動車がプリンス自動車を吸収合併するなど慌ただしい動きがおこり、自動車メーカーで生き残れるのは上位3社だけとも言われました。

――社会情勢が、55年と似たような雰囲気ですね。

杉浦: ホンダはここで、また大きな投資を行っていました。64年、埼玉の狭山に四輪車の量産工場を建設したのです。四輪メーカーとしては未熟な段階で、四輪車を作ってもすぐに売れるという状態ではなかったのに、です。

本当に、55年と同じような状況になってしまいました。やはり各所から「この会社、本当に大丈夫か?」と、ホンダはマイナスの視線を浴びるようになっていきます。

1965年2月1日号のダイヤモンドでホンダについて書かれた記事を見ると「問題会社」というタイトルが飛び込んできます。黒い噂、株価暴落、三菱自動車への合併説、ホンダ社長の退陣説、人員整理説……。会社解散説まで出ています。

引用:1965/2/1ダイヤモンド「高収益時代の再現をねらう本田技研・問題会社」
(前略)証券市場では、”本田技研・傾く”とのウワサが流れはじめた。このウワサを列挙すれば—
1・三菱重工への合併説
2・本田社長退陣・藤沢副社長昇格説
3・三菱信託との不仲説
4・—略—(杉浦注:雑誌にはこのように記載されている。原文ママ) 5・ダブル株発行説
6・減資説
7・人員整理説
8・40年2月期の減益説(杉浦注:=1965年2月期)
9・会社解散説
ウワサは、月を追って悪質化した。金融筋が三菱銀行である関係上、三菱重工との合併説は、まだ良識のある方で、ダブル株、減資、人員整理、解散説にいたっては、株価をひきずりおろすための火のないケムリであった。

――関係者は今度こそさすがにだめだろうと思ったんでしょうね。

杉浦: 周囲はネガティブに騒ぎますが、結果的にはこのタイミングでの四輪参入、投資は絶妙でした。60年代を通じて日本は国策として高速道路を数多く建設しました。そして住宅難を解消するため一気に郊外の道路整備を進めたのです。66年にはトヨタがカローラを発売。日本のモータリゼーションの幕開けです。

その後、ホンダのブレイクポイントがありました。72年に発表したCVCCエンジンです。70年代になると、環境問題や排気ガス規制が非常にシビアになり、自動車メーカーは公害を減らすことへと軸足をシフトしていきます。それに対してホンダは公害を少なくするCVCCエンジンを奇跡的に開発します。

それを小型乗用車シビックに乗せて、日本だけでなく、海外、特にアメリカにも売り出しました。アメリカで高い評価を得たことで、ホンダは一躍世界的企業としての地位を確立します。

――本田宗一郎も、なかなか危ない橋を渡っていますね。

杉浦:本田宗一郎が本当の意味で経営者として賞賛されるようになったのは、アメリカ輸出で成功した1970年代以降 です。その後、年を経るにつれて神格化されていきます。しかしそれ以前は、良い時は持ち上げられるし、悪い時にはこれでもかと酷評される、そんな人間くさい普通の経営者だったのです。

70年代以降、本田宗一郎がメディアに積極的に出るようになると「俺の経営」といったことを語るようになります。現在、我々が抱く本田宗一郎像はこの時期の彼の発言などから確立された部分が多くあります。

例えばYouTubeにも、後年の本田宗一郎の講演は上がっていますし、実際とても良いことを言っていますよね。しかし一方で、講演などではなかなか語られない55年や65年の苦境やその背景を知ることで、ホンダの本当のすごさが理解できると思います。

当時、 同業の誰よりも工作機械が好きだったこと。600万の資本金で4億円の投資をする度胸があったこと。これが現在に至る、ホンダの大きなターニングポイント だったと思います。

神格化された「事後」の本田宗一郎の話に耳を傾けるのも良いですが、ホンダが一流企業になった本質は、「無名時代」の本田宗一郎の行動にあります。 周囲からボロクソに叩かれていた時に、ホンダは企業として強くなるための地盤を築きました。

無名時代から「世界企業になる」や「日本のため」という大きな目的を掲げ、周囲からの「評判」を一切気にせず、倒産覚悟で巨額投資をする。ここに、本田宗一郎の本当の凄みがあるのだと思います。

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