連載:第8回 成長企業 社長が考えていること
職人技の8割は言語化できた。職人の父vs仕組みの息子。社運をかけた親子喧嘩5年。売上は9倍に
創業55年。小さな町のクリーニング店を20代で承継した東田伸哉社長。はじめて決算書に目を通した瞬間、あまりのひどさに怒りを覚えたといいます。過去の経営を非難し、家族と衝突する日々。そんな中、「自分の正しさを証明する」ために始めたネット宅配クリーニング事業「リナビス」は紆余曲折の末、大ヒット。2014年からの5年間で、売上・社員数ともに約9倍に成長しました。その過程で、東田社長が痛感した自身の思い違いや、職人仕事の効率化について話を聞きました。
株式会社 東田ドライ
代表取締役社長 東田伸哉さん
2012年、中京大学現代社会学部を卒業と同時に東田ドライに入社。翌年、結婚を期に経営状況を社長である父親に確認したところ、17期連続減収減益だと知り驚愕。危機感を募らせ2014年4月、インターネットでの宅配クリーニングサービス「リナビス」をスタート。2019年現在、年商13億円の事業に成長。
この記事でわかること
- 父と対立して気づいた、家業のクリーニング店が持つ強みとは?
- 「職人技」だと思われていた仕事をどうマニュアル化したのか?
- 売上9倍成長の中で見えた「家族経営だからできたこと」とは?
「これは何なんや!」。決算書を父親(前社長)に投げつけた
――入社の経緯や、お父様(先代社長)との関わりについて教えてください。
東田伸哉さん(以下、東田): 私は大学を卒業してすぐ、2012年に家業である東田クリーニングに入社しました。子どものころから「将来はここで働くんだな」と考えていましたし、顔見知りのスタッフも多く、入社自体はスムーズでした。
転機となったのは2013年。結婚をし、将来のことをいよいよ真剣に考えはじめたとき、初めて会社の決算書を見たんです。すると、経営状態が想像以上に悪かった……。
売上も利益も右肩下がりで、多額の長期借入金がある。当時の社長である父に決算書を投げつけ「 これは何なんや! 」と迫りました。「結婚もしたし、これからしっかり生活していかなければいけない…… 今までの20年30年、何をしてたんや! 」と。
父が発したのは「仕方ない」という言葉。「業界全体が斜陽なんやから、仕方ないやないか!」と。その日はとことん口論しましたね。その後、仕事は父と相談しながら進めるものの、スピード感などが噛み合わず、毎日のように衝突を繰り返していました。
――どのような衝突が多かったのでしょうか?
東田: いわゆる「家族経営」ゆえの衝突でしょうか。経営についての話をしようとしているのに、どうしても「家族」の心情的な話にすり替わってしまう。たとえば「売上の減少に対して、どんな対策をしていたのか?」と聞いても、「空き時間にポスティング……」といった拍子抜けの答えが返ってくる。さらにそこから「俺たちだってがんばってきたんだ!」「お前は知らないだろう!」と。
私は「がんばった」「苦労した」「大変だった」といった話をしたいわけではなく、『これから何をするのか』という、建設的な話をしたかったのですが、 「家族としての思い」の部分でどうしても話が嚙み合いませんでした。
――そういった状況の中、「リナビス」をどのように立ち上げていったのでしょうか?
東田: 最初は父と話し合って、なんとか合意を形成しながら進めようとしたのです。しかし、 それではやはりスピードが出ませんし、話し合いをしても結局衝突してしまう……と私の中で結論付けました。
そこで「好きなようにやっていいか?」と父に話をし、従業員の前で「自分は今までのやり方と決別して、新しくWEBを使ったクリーニングのサービスを立ち上げる!絶対成功する!」と宣言して、プロジェクトをスタートさせました。 個人的には退路を断った感覚ですね。 私が主張する「新しいこと」が正しいか、父が主張する「今までのやり方」が正しいかの対決だと考えていました。なので、とにかく結果を出すことに集中していました。
いつもの「おせっかい」が最大の強みだったとは
――おせっかいなインターネット宅配クリーニング「リナビス」は順調に成長したのでしょうか?
東田: 「リナビス」は2014年にスタートしましたが、実は最初は「おせっかいなクリーニング店」というコピー・コンセプトではなかったんです。スタイリッシュで都会的(笑)な雰囲気でした(当時のWEBサイトは下画像参照)。
今思えば、 「自分が正しくて、父親が間違っている」ということを、ただただ証明したかったんでしょうね。 それまで父が築いてきた自社の良さや強みに目を向けずに、とにかく新しく、トレンディな雰囲気にしようとしていました。はい……、もちろんうまく行きませんでした。
ホームページのメインイメージの変遷。上は2014年、下は2019年。
――「おせっかいなクリーニング店」というコンセプトはどのように生まれたのでしょうか?
東田: 転機となった出来事がありました。夜の9時くらいにお客様から一本の電話がかかってきたのです。「明日始業式なんだけど、学生服を受け取りに行くのを忘れてしまった……。何とかならないか?」と。父や母はその電話を受け「お客様が困るから」と届けに行ったんです。
父と母の行動を見て、売上や利益に直接つながるわけではないが、絶対にお客様が喜ぶ行動だろうな、ということは腹落ちしました。しかし、「なぜそんなことをするのか?」「なぜできるのか?」と考えているうちに、そういった行動は父や母に限らず、会社のスタッフやパートのおばさんにとても多いことに気がついたんです。いわば、当社にとっては当たり前の行動なのではないか?と。
「困っているであろう人を想像して、勝手にお世話してあげる」 。小さな町で、まがりなりにも50年クリーニング店が続いてきた理由は「おばさんのおせっかい」なのではないか、と。そこに思い至り「おせっかいなクリーニング店」というコンセプトを確立しました。2015年ごろですね。
――その後、「リナビス」のサービスが本格的に開始されるわけですね?
東田: はい。コンセプトを新たにした「リナビス」は、WEB集客もうまく行き、順調に成長していきました。2016年3月に200件の注文があった際には、繁忙期である4月に向けて「500件くらい注文がくればいいね!」などと話していました。しかし蓋を開けてみると、注文は2,400件……。現場、特に私はパニックです。集客はできたものの、それをさばけるかどうか、という問題が勃発しました。
私自身は正直、降参していました。もう、お客様に謝罪するしかない、と。ところが、30年以上一緒に働いているパートのおばさんたちが中心になって、陣頭指揮をとり、その量をこなしてくれたんです。 その時ほど、50年の歴史を誇るクリーニング店の底力を痛感したことはありませんでした。
そして気づいたんです。私がやったことはインターネットで集客の仕組みを作って、クリーニングのニーズを持つお客様を全国から集め、注文をいただいたこと。それだけだったと。その注文をこなし、 お客様から「対価」をいただくためには、この現場にいる人たちの強い結びつきや絆が絶対に必要 だということに。
「とてつもなく強い組織だな」と感じましたし、本当に尊敬の念を抱きました。それ以降、より社内に、現場に目を向けるようになりました。
「職人仕事」は言語化していないだけ。85%は誰でもできた
クリーニング工場には珍しい本格的な衣服の修理場。工場内に数カ所設置
――「リナビス」の成長に対し、クリーニングの質はどのように担保されているのでしょうか?
東田: クリーニング技術について、洗濯機や乾燥機といった機材ではほとんど差はでません。 差が出るのは結局「作業者がどれだけ手をかけるか」という会社の姿勢 です。染み抜き、修理、毛玉取りという、いわゆる手作業・職人技の部分がクリーニングの質を左右すると考えています。私たちは「おせっかいなクリーニング店」という看板を掲げていますので、こういった 「人が携わる部分」「お客様の満足に直結する部分」に人と時間を割ける体制 を構築しています。
――やはり、職人の仕事が必要なのですね?
東田: そうですね。しかしこの 「職人」という呼称がまたやっかい なんです。私自身、長年考えていたのですが、仮に職人の仕事を丁寧に分解していった場合、「その工程のすべてが、その職人にしかできない」ということはないのではないか、と。
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