連載:第77回 経営危機からの復活
「これまで見た中でもぶっちぎりのワースト」借金3億、赤字企業を蘇らせた3代目
奈良県でスポーツウェアの企画・製造・販売を手掛ける株式会社アクラム。3代目の勝谷仁彦社長が経営を引き継いだ2012年当時、会社は債務超過約1億円、借金約3億円という厳しい経営状態でした。しかし、コスト構造の抜本的な見直しと、自社ブランド「スクアドラ」の立ち上げにより、見事にV字回復を果たします。勝谷社長の再建への道筋と、ブランド構築に込めた想いについて、詳しく伺いました。
株式会社アクラム
代表取締役 勝谷 仁彦さん
1973年、東京で生まれ、奈良で育つ。関西学院大学卒業後、1999年に会計事務所にて税務コンサルティング業務に従事。2010年に父の経営する株式会社アクラムへ入社。2013年に代表取締役社長に就任。現在はJリーグ、Bリーグなどプロを含む多くのスポーツチームのユニフォーム製造を手掛ける。
父から見せられた決算書は 「ぶっちぎりのワースト」の衝撃
――どのような経緯で家業を継がれたのでしょうか?
勝谷 仁彦さん(以下、勝谷): もともと家業を継ごうとはまったく考えていませんでした。小学校のときは、社会科見学で実家の工場に行くのが恥ずかしいとすら感じていました。親がどのような経営をしているか特に関心もなく、中学から始めたゴルフに熱中できる環境を探して高校、大学を選んだのです。
学生時代に取り組んだゴルフに関わる仕事がしたいと思い、大学を卒業して就職先に選んだのはゴルフクラブの製造・販売を行う企業です。ただ、店舗や催事などでクラブの販売を任されるかたわらで、定期的にやってくる棚卸の仕事や、販売の集計システムの開発を手伝っているうちに、数字を扱う仕事の面白さに目覚めました。
その後、会計事務所に転職しました。入所して3年ほどでクライアントを持たせていただけるようになり、主に中小企業の税務コンサルティングを担当していました。当時は、民事再生法が施行され、不景気も相まって多数の企業が次々と倒産する状況でした。振り返るとこのときの経験が、家業の再建に大きく役立つことになりました。
家業に戻ったきっかけは決してポジティブなものではありませんでした。会計事務所の仕事に慣れ、決算書が読めるようになった頃に、興味本位で父にアクラムの決算書を見せてもらいました。
しかし、その内容はあまりに衝撃的で、これまでに見たことのある決算書の中でもぶっちぎりでワーストの内容でした。債務超過額は約3億円、銀行借入金は約5億円、売上は約1.6億円、利益はマイナス3000万円。さらに中国事業からの撤退による影響で仕事が激減し、銀行からは「破綻懸念先」と区分されていました。
ただショックは受けたものの家に戻る決断はしませんでした。その代わり、倒産だけは回避すべく、会計事務所の先輩とアクラムの再生計画を立案し、資産の売却による負債の返済を父に提案しました。
これに父も納得してくれて、先祖代々の土地の一部を売却し、約2億円分の返済に充てました。無論、これは応急処置です。それでもまだ3億円の借入、1億円の債務超過でした。
――承継を決心したのはいつでしょうか?
勝谷: 父が70歳を過ぎた頃です。「継いでくれ」と言われたわけではありませんが、放置していても、やがて自分のところへ矛先が来るのは明白でした。そこで、手遅れになる前に火中の栗を拾う決心をしました。
また、会計事務所のクライアントでもある経営者の方からも、そろそろ自分で経営する経験をしたほうがよいとの言葉ももらっていました。タイミングが合致したということだと思います。
――まだまだ経営は厳しい状態だったのですね?
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