close

はじめての方はご登録ください(無料)

メニュー

BizHint について

カテゴリ

最新情報はニュースレター・SNSで配信中

連載:第27回 経営危機からの復活

売上は1/4、経営危機からの復活劇。600%超成長への大逆転は「家族仲」が礎に

BizHint 編集部 2022年5月18日(水)掲載
メインビジュアル

外資系企業を後にして家業に戻ったものの、思い知ったのは「もはやこのビジネスに未来はない…」という厳しい現実。それは東京都足立区の刺繍の老舗、株式会社マツブンが存続できるかどうかの瀬戸際でもありました。そんな中で、3代目の現社長・松本照人さんは新しい挑戦によって事業転換・成長軌道に乗せることに成功します。その過程で、家族経営だった会社は徐々に組織化。様々な課題も出る中で前進できたのは「家族仲の良さと、脈々と続く朗らかな社風」と語ります。旧来のビジネスモデルが通用しなくなる中で、何を考え、どう行動したのか?お話を伺いました。

メインビジュアル

株式会社マツブン
代表取締役社長 松本 照人さん

1991年、日本大学商学部経営学科卒。同年、ドッドウェル・エンド・コンパニーリミテッド。1996年、担当していた米国機械メーカーの日本法人設立によりピッツニーボウズジャパンへ。2000年、株式会社マツブン入社。2009年、代表取締役。2016年、東京商工会議所・勇気ある経営大賞特別賞を受賞。


幼少時代に自宅と工場が全焼。見つめた両親の背中

――創業からの経緯を教えてください。

松本 照人(以下、松本): マツブンは、祖父が1939年に東京・荒川区で創業した会社です。祖父は当時、東京にわずか3人しかいなかった、スーツに名前を手刺繍する職人でした。マツブンという社名も、松本文作という祖父の名前が由来です。

二代目となる父は、5人兄弟の長男でした。「家業を継げ」と言われた際に「手刺繍は嫌だ。刺繍加工を機械化するのであれば継ぐ」とミシンに方向転換し、アパレルの下請け加工を手掛けました。ドイツ製の大型刺繍機を導入するため、足立区に土地を購入して会社が移転、現在に至ります。

――松本社長ご自身が「家業を継ぐ」ことを意識されたのはいつ頃からでしょうか?

松本: 「継ぐ」とはいかないまでも、「いつか手伝ってあげたい」という気持ちは子供の頃から常にありましたね。

というのも、足立区への移転から8年後、自宅と工場が放火により全焼してしまったんです。そんな中でも両親は愚痴をこぼさず、再建に向けてこつこつがんばっていました。当時、僕は8歳でしたが、 子どもながらに両親の大変さはわかりましたし、またその背中をずっと見ていましたので。

――大学を卒業後は、外資系企業に就職されていますよね。

松本: はい。「3年くらいは外で修行しよう」と外資系商社に入社し、ビジネス用機械を担当しました。当時はまだ新卒で外資系企業に就職する流れは珍しかったのですが、僕としては「すぐに仕事を覚えたい」「実践で鍛えてもらいたい」「早く仕事を任せてもらいたい」と思っていたので、下積みが長いとされた日系企業はどこも受けませんでした。

そこでの仕事は本当に面白く、また居心地も良かったので結局10年働きました。営業部長を務めるまでになりましたし、一応、成績は良かったんですよ(笑)。

――「家業に戻ってほしい」という声はなかったのですか?

松本: 5年目くらいに母が病気で倒れたこともあって、「家業を継ぐので退社したい」と申し出ました。すると「お父さんの会社を継ぐのなら、もっと勉強してからの方が良いのでは」「僕が君のご両親を説得しに行くよ」と、副社長から熱心に慰留され、親にはもう少し待ってもらうことにしました。今思えばそこからの5年、まさに脂が乗ってからの経験は本当に貴重でしたね。

人生初の五分刈りは黒歴史。営業先で初対面の相手に言われた、忘れられない一言。

――松本社長が家業に戻られた頃の状況は?

この記事についてコメント({{ getTotalCommentCount() }})

close

{{selectedUser.name}}

{{selectedUser.company_name}} {{selectedUser.position_name}}

{{selectedUser.comment}}

{{selectedUser.introduction}}